ページが見つかりませんでした – 西洋美術の巨匠に出会う https://art-whitecanvas.com 西洋美術の巨匠に出会う Wed, 30 Nov 2022 10:29:16 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.1.5 https://art-whitecanvas.com/wp-content/uploads/2017/09/cropped-Annunciazione-32x32.jpg ページが見つかりませんでした – 西洋美術の巨匠に出会う https://art-whitecanvas.com 32 32 『エコール・ド・パリ悲劇の画家』世界一の売れっ子画家、私生活はアルコール依存と囚人生活だった!?モーリス・ユトリロ をご紹介します! https://art-whitecanvas.com/maurice_utrillo/ https://art-whitecanvas.com/maurice_utrillo/#respond Mon, 28 Nov 2022 10:31:18 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4713 こんにちは。管理人の河内です。

今回は20世紀前半のパリで活躍したエコール・ド・パリ(パリ派)の画家モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)を取り上げてみたいと思います。

ユトリロはパリの裏通りや教会、モンマルトルの丘などを描いた風景画で知られる画家です。

白い壁が印象的で日本でも人気の画家ですね。

実はこのユトリロは生前からあのピカソよりも売れた画家なんです。

ということは20世紀前半で最も作品が売れた画家ということなんです!

 

そんなユトリロですが実生活では私生児として生まれ、恵まれない幼少期を過ごし生涯アルコール依存症に苦しみました。その上、家族からは軟禁され自分の描いた絵の売り上げを搾取され続けた悲劇的な人生を送ったということはあまり知られていません。

 

ピカソをもしのぐ成功を収めたはずの売れっ子画家とはいったい人だったのでしょうか?ご紹介したいと思います。

モーリス・ユトリロってどんな人?

モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)は20世紀前半のパリに集った若い画家たちのコミューン「エコール・ド・パリ」の画家です。

「エコール・ド・パリ」と言えば当時モンマルトルの丘にヨーロッパ各地から集まったボヘミアン的な若手画家たちを一括りにして使う名称ですが、その中でもユトリロは唯一人生粋のフランス人でした。

 

ユトリロは、パリの街それも古びた小路や教会、薄汚れた街並み、運河などいわゆる華やかな“芸術の都”ではない裏通りのパリ、身近な日常のパリを描きました。

 

その作風は静謐でどこか憂鬱で寂しげな印象が特徴です。

特にユトリロの描く壁の白は独特で「白の時代」と呼ばれる時期の作品群は生前から高い評価を受けています。

ユトリロの作品は世界恐慌下でも売れ続け、経済的に成功をおさめピカソやブラマンクら同時代の画家たちからも高い評価を受けていました。

 

そんな画家としての成功の反面、私生活では恋多き女性として知られるモデルで画家のシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれました。

母ヴァラドンは、仕事や恋愛に忙しくユトリロは育児放棄された状態であったため祖母に育てられます。

体は弱く内向的な性格で10代のころより酒を飲み生涯アルコール依存症に苦しめられました。

 

成人して売れっ子画家になってからも酒を飲んでは暴れたり警察沙汰を起こしては精神病院や療養院への入退院を繰り返します。

 

そのため実の母や継父、晩年は妻にまでアトリエに軟禁され制作をさせられる囚人のような生活を送ります。

さらに酷いことに彼らはユトリロの絵を売って儲けた金でぜいたくな暮らしをしてはユトリロのことを「貨幣鋳造機」とよんで搾取し続けたのです。

左;母ヴァラドン 中央:ユッテル 右:ユトリロ

こうした私生活の悲劇性と、歴史に名を残すほど画家としての成功という光と影の二面性こそが哀愁漂うユトリロ作品の背後にあったのかもしれません。

ユトリロは、伝統的な美術教育も受けず新しい芸術運動に参加することもなく、生涯自分の詩情の赴くまま日常の風景を描き続けた孤独な画家だったのです。

モーリス・ユトリロの生涯~ざっくりと

幼いころのユトリロと母シュザンヌ

モーリス・ユトリロは1883年パリのモンマルトルの丘近くで、画家でモデルでもあったシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれました。

 

7歳の時、スペイン人の画家で美術評論家ミゲル・ユトリロに認知されて「モーリス・ユトリロ」と改姓しました。

幼少期は祖母に育てられますが、孤独と精神不安から10代で酒を覚え18歳ですでにアルコール依存症で入院します。

一時母が資産家と結婚したことで生活は安定しますが、すでにアルコール依存が進み学校中退、職を転々とします。

 

入院中に医者の勧めで治療の一環として絵をかき始める。

退院後も絵を描き続け少しずつ絵が売れるようになりますが、その稼いだお金はすべて酒代に消えていきます。

 

1908年頃からは絵ハガキをもとに風景画を描くようになり「白の時代」が始まります。

この頃から作品が評価され始め画商と契約し、経済的には安定しますが、依然酒はやめられず入退院を繰り返します。

09年にはサロン・ドートンヌへ出品。

 

フランス政府からレジオンドヌール勲章やパリ名誉市民賞などを受賞。

 

52歳でリュシー・ポーウェルズと結婚、パリ郊外のル・ヴェジネに移り住む。

 

長年アルコールに侵され続けていたにも関わらず71歳という長寿で亡くなりました。

 

ユトリロの生涯について詳しい記事はこちらをご覧ください⇒ 『エコール・ド・パリ』“天才画家の光と影”モーリス・ユトリロの生涯を詳しくご紹介します!

モーリス・ユトリロの代表作~ざっくりと

ではここでユトリロの代表作をご紹介します。

(詳しい解説付きの記事はまた後日アップいたします)

『モンマニ―の屋根』

1906~7年ごろ キャンバスに油彩  パリ ジョルジュポンピドゥーセンター蔵

『ドゥイユの教会』

1912年ごろ カルトン(板紙)に油彩 52×69㎝ 個人蔵

『モン=スニ街』

1915~16年ごろ キャンバスに油彩 パリ国立近代美術館蔵

『サン=セヴラン聖堂』

1912年頃 キャンバスに油彩 73×54㎝ ワシントン ナショナルギャラリー蔵

『パリの街路』

1914年 キャンバスに油彩 63.5×80㎝  アート・インスティテュート・オブ・シカゴ、ヘレン・バーチ・バートレット記念コレクション

『サン=ピエール聖堂とサクレクール』

1910年頃 カルトン(板紙)に油彩 53×72㎝  個人蔵

『コタンの袋小路』

1911年頃 カルトン(板紙)に油彩 62×46㎝ パリ国立美術館蔵

『哲学者の塔』

1920年頃 カルトン(板紙)に油彩  ボストン美術館蔵

『休日の広場』

1922年 紙にガッシュ 24.8×34.3㎝ ジョスリン・アートミュージアム オマハ

 

モーリス・ユトリロの画風と技法

ユトリロはこれまでご紹介してきたような巨匠たちとは違い、そもそもの絵を描き始めた目的がアルコール依存症の治療の一環からでした。

また初めに手ほどきを与えた母のヴァラドン自身もルノワールやドガなどの影響を受けたとは言え正規の美術教育や修業をしたわけではなく、それほど熱心に息子に教えていたわけでもありませんでした。

 

ユトリロ自身、若い頃にピサロやシスレーら印象派の影響を受けましたが、基本的には独学で独自の表現を創り上げていきました。

 

それがある意味ユトリロの絵に唯一無二の素朴でぎこちない雰囲気を与えたとも言えます。

 

ユトリロの描く絵はほとんどが風景画です。

始めは戸外に出てイーゼルを立てて描いていましたが、後にパリの街の写真が写った絵ハガキを見て描くようになります。

(ユトリロの作品はいわゆる陰影に乏しく、遠近感(パース)が強かったり輪郭線が強調されているのは当時の白黒写真を見て描いた影響もあるのではないかと管理人は感じています)

画家として成功をおさめたいわゆる「白の時代」の作品では、彼が生活したモンマルトルの街、そこにたちならぶ建物の漆喰の白、これこそがユトリロ芸術の代名詞でもあります。

また人物がいない、または小さく描かれたモンマルトルの街はいわゆる華やかな芸術家の集まる街ではなくどこかうら寂しい重く悲しげな空気が漂っています。

その後1915年前後からは「色彩の時代」へと移行します。

それまでの白を基調とした画面に様々な色が現れ線を強調しはじめます。

また白の時代ではほとんど描かれなかった人物、特に女性を風景の中に描きはじめたことも大きな変化でした。

残念ながらユトリロ芸術は「白の時代」をピークに晩年は若いころの焼き直し的な作品が多くなっていきます。

 

ユトリロ まとめ

 

『20世紀悲劇の画家』モーリス・ユトリロについて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか?

初めにユトリロをエコール・ド・パリの画家とご紹介しましたが、実はこれは議論の分かれるところです。

なぜなら彼はモンマルトルの住人でもなく異邦人でもありません。

『エコール・ド・パリ』の中で唯一のパリっ子であり、他の画家仲間と新しい芸術論を戦わすなどということもなくただひたすらに酒と絵筆だけを取り続けた孤独な画家だったからです。

今回このブログを書くに当たって新ためてユトリロを調べて、管理人はこのユトリロの悲しい人生を知って改めて彼の作品に通底する寂しさや憂鬱感の正体を知った気がしました。

「才能はあるが破天荒」「酒浸りだが名画を描く」といったような私たちがよくイメージしがちな“破滅型の芸術家”のプロトタイプがユトリロ(他にはモディリアーニも)にあったのかもしれないと思いました。

 

彼のさらに詳しい人生の詳細については『ユトリロの生涯~詳しく~』をご一読ください。

 

ご紹介しましたようにユトリロは世界で最も売れた画家であったため、作品数も多く日本でも人気が高いので国内でもいろんな美術館やギャラリーが作品を所蔵しています。

ご興味のある方はぜひ足を運んで生のユトリロに触れてみてはいかがでしょうか?

 

(関東では東京都町田市にある西山美術館や神奈川県箱根町にあるポーラ美術館が多くのユトリロ作品を所蔵されています。

西山美術館ホームページ https://www.2480.jp/

ポーラ美術館ホームページ https://www.polamuseum.or.jp/

]]>
https://art-whitecanvas.com/maurice_utrillo/feed/ 0
スコットランド国立美術館展 THE GREATS 美の巨匠たち展 レポート https://art-whitecanvas.com/exhibition-2022_scotland/ https://art-whitecanvas.com/exhibition-2022_scotland/#respond Mon, 04 Jul 2022 09:39:42 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4691 こんにちは。管理人の河内です。

今回は35℃を越える灼熱猛暑の中、東京上野の都立美術館で開催していた「スコットランド国立美術館展THE GRATES 美の巨匠たち」展を見てきましたのでそのご報告をしたいと思います。

残念ながら私の予定が付かず、見に行ったのがほぼ会期末という事ですでに東京展は終了してしまいましたが、この後,神戸、北九州と巡回する予定ですのでそちら方面にお住いの方の参考になればと思いレポートしてみたと思います。

 

スコットランド国立美術館展① 展覧会概要

ではまず展覧会の概要です。

上述したように今展覧会東京会場はすでに終わってしまいましたが、この神戸、北九州へと巡回します。

【東京会場】(終了)

会期:2022年4月22日(金)~7月3日(日)

会場:東京都美術館 企画展示室

休室日:月曜日

主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、毎日新聞社、NHKほか

お問合せ 050-5541-8600(ハローダイヤル)

展覧会公式サイト: https://greats2022.jp/

 

【神戸会場】

会場:神戸市立博物館

会期:2022年7月16日(土)~9月25日(日)

休館日:毎週月曜日・7月19日(火)・9月20日(火)

ただし7月18日(月・祝)、9月19日(月・祝)は開館

開館時間:9:30~17:30 金曜日と土曜日は19:30まで ※入場は閉館の30分前まで。

主催:神戸市立博物館、毎日新聞社、NHK神戸放送局ほか

 

【北九州会場】

会期:2022年10月4日(火)~11月20日(日)

会場:北九州市立美術館 本館

主催:北九州市立美術館、毎日新聞社、NHK北九州放送局

 

スコットランド国立美術館展② スコットランド国立美術館ってどんなところ?

スコットランド国立美術館( National Gallery of Scotland)は、1859年に開館したイギリスのスコットランドエディンバラにある国立美術館です。

エディンバラ中央部のマウンドと呼ばれる人工の丘陵地帯に建てられた壮大な新古典主義様式の重厚な建物となっています。

王立スコットランド・アカデミーから移管された絵画がコレクションの中核となっていますが、開館以来の作品購入と地元の名士たちからの寄贈や寄託によってその数は拡大を続けヤコポ・バッサーノアンソニー・ヴァン・ダイクジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロらの傑作が収蔵されています。

またその研究施設には、初期ルネサンスから19世紀後半までの版画とドローイングに関する紙資料が30,000枚以上収蔵されていて参考文献のみが集められた学術図書館も大衆に公開されています。

 

スコットランド国立美術館展③ 見どころ

今展では同館が誇る至宝の中からゲインズバラ、レノルズなどイングランド出身の画家だけでなくラファエロ、エル・グレコ、ベラスケス、レンブラント、ルーベンスなどルネサンス期から19世紀後半まで西洋美術史を代表する巨匠たちの油彩画・水彩画・素描など約90点が展示されています。

特に今回の見どころは日本初公開となるベラスケスが青年時代に描いた『卵を料理する老婆』は必見です。

管理人はポスターにもなっているこの作品がお目当てで行ってまいりました(;^_^A

スコットランド国立美術館展④ 展示構成

管理人が見に行った東京展(都立美術館)では以下の6つのセクションで構成されていました。

プロローグ、Chapter 1 ルネサンス、Chapter 2 バロック、Chapter 3 グランドツアーの時代、Chapter 4 19世紀の開拓者たち、そしてエピローグ。

時間軸に沿ってルネサンスから近代まで美術史の流れが俯瞰できるように構成されていました。

都立美術館の展示室は地下階から始まります。

入り口を入ったところでプロローグ。あいさつ代わりのスコットランド国立美術館が描かれた水彩画から始まります。そしてルネサンス、バロックと古典絵画が続きます。ここで展示されていたのがいわゆるオールドマスター、ヴェロッキオ、ラファエロからベラスケス、レンブラントなどが並んでいます。

そしてエスカレーターで地上一階に上がり「グランドツアーの時代」ここではいわゆる貴族の館に飾ってありそうな美しい貴婦人像や風景画が並びます。そして「19世紀の開拓者」は一階から二階へと続きモネやゴーガンなどフランスの画家もありましたが基本的にはイギリスの画家たちの作品。

そしてエピローグでは巨大なフレデリック・エドウィン・チャーチの『アメリカ側から見たナイアガラの滝』が待ち構えています。

 

スコットランド国立美術館展⑤ 主な出品作

エル・グレコ『祝福するキリスト(世界の救い主)』1600年頃

ディエゴ・ベラスケス『卵を料理する老婆』1618年

レンブラント・ファン・レイン『ベッドの中の女性』1647年

ジョシュア・レノルズ『ウォルドグレイヴ家の貴婦人たち』1780~81年

クロード・モネ『エプト川沿いのポプラ並木』1891年

エドガー・ドガ『踊り子たちの一団』1898年

ポール・ゴーガン『3人のタヒチ人』1899年

フレデリック・エドウィン・チャーチ『アメリカ側から見たナイアガラの滝』1867年

 

 

スコットランド国立美術館展⑥ 私的感想

今回は管理人が会期末の滑り込みで見に行ったということもありますが、猛暑の平日にも関わらず多くのお客さんがいらしていました。

ここでは管理人独自の忖度一切なしの個人的感想を書いてみたいと思います。

結論から言うと…「う~ん…」といった感じでした(>_<)。

前回の展覧会報告「メトロポリタン美術館展」での報告と同様辛口にならざるを得ないというのが正直なところです。

前回はルーブル美術館にも匹敵する(?)大美術館の傑作選と銘打っていたのにも関わらす、いわゆる代表作がほとんど皆無だったという悲しい結果をご報告しましたが今回も「GREATS」と大きな看板を掲げていたにも関わらず代表作は皆無…(T_T)

「メトロポリタン美術館展」同様、出品画家名だけを見ると初めに書いたようにラファエロ、ルーベンス、ベラスケス、エル・グレコと錚々たる巨匠の名前が踊ってはいるものの画集に乗るような名作に出合うことはありませんでした。

唯一お目当てのベラスケス『卵を料理する老婆』が見られたのは良かったですが後は…

90数点の出品作にしては素描の割合が高かったり、いわゆる英国の貴族趣味的な「きれいな」作品が多く、もっと代表作ではないにしても画家の魂のこもった存在感のある作品が見たかったです。

レンブラント推しの管理人としては、レンブラントさえ見せてくれればある程度納得するのですが、今回の出品作はレンブラントの中ではあまり刺さりませんでした。

 

ただ全くダメダメだったかというとそういう分けでもなく少数ながら面白い作品はありました。

例えばエル・グエコの「祝福するキリスト(世界の救い主)」やルーベンスの「頭部習作」は小作ながらやはり力強さや迫力を感じましたしヴェロッキオの「幼児キリストを礼拝する聖母」は初期ルネサンスらしい気品と優しさの伝わる良作でした。

そして今回管理人お目当てのベラスケス『卵を料理する老婆』はやはり一見の価値ありです。

当時流行した「ボデゴン」と呼ばれる厨房と食材をメインに光を当てた構図で描かれており少年と老婆の対比、重厚な質感表現などはまだ二十歳にも満たないベラスケスの天才を見せつけてくれます。

また2階会場の初めに展示されていたジャン=パティスト・グルーズの「教本を開いた少年」の柔らかく血の通った肌の表現は目を見張りました。

 

こうしたあまり知られていないが良作との出会いはやはり実際に会場に行ってみないと得られないものだと思いますので、いわゆるこれぞ代表作!というのを期待しなければそれはそれで楽しめると思います。

 

ただ、管理人の愚痴になってしまいますがここ数年の入場料の相場が上がっていることやチケットの事前予約のわずらわしさ、さらに今回の猛暑が追い打ちとなって帰り際「GREATS」という看板がむなしく感じたのも事実です…

 

スコットランド国立美術館展⑦ まとめ

以上が今回見てきた『スコットランド国立美術館展』の総評と言いますか個人的な感想です。

ただ何度も言いますがこれはあくまでも管理人個人の感想ですのでイギリス絵画がお好きな方やヨーロッパ貴族の優雅な世界がお好きな方はもっと違った感想をお持ちになるかもしれません。

これから神戸会場や北九州会場へ行ってみようかとお考えの方には実際に足を運ばれてご自身の目で体感していただければと思います。

 

]]>
https://art-whitecanvas.com/exhibition-2022_scotland/feed/ 0
あるのに見えない!謎とメタファーが満載!ハンス・ホルバイン作『大使たち』を読み解く! https://art-whitecanvas.com/holbein_the_ambassadors/ https://art-whitecanvas.com/holbein_the_ambassadors/#respond Wed, 04 May 2022 10:25:56 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4661 こんにちは。管理人の河内です。

今回はルネサンス時代、ドイツで生まれイギリスで活躍したちょっと変則的な画家ハンス・ホルバイン作の『大使たち』をじっくり解説してみたいと思います。

ホルバインと言えばあまり日本では知られていないかも知れませんが、日本の最大手絵具メーカー『ホルベイン』としてなら聞いたことがあるかもしれません。

絵を描く人ならほぼ間違いなく誰しもが聞いたことがある、使ったことがあると言えるほどの超大手メーカーの名前になるほど実は有名な画家なんですね。

今回はそのハンス・ホルバインの描いた謎めいた名作『大使たち』を深堀りしていきたいと思います。

ハンス・ホルバイン『大使たち』① ハンス・ホルバインとはどんな画家?

ではまず初めにハンス・ホルバインについて見ておきましょう。

ホルバインは、1497年ドイツのアウクスブルクで生まれました。

ホルバインは父と同じなまえを付けられていたので一般的にはハンス・ホルバイン(子)と表記されます。

主にスイスのバーゼルで画家としての初期の経歴を積みました。

バーゼルでは肖像画、祭壇画や壁画、ステンドグラスのデザインなど幅広く手掛け、ほかにもバーゼルが出版の中心都市であったことから本の挿絵なども制作し当地を代表する芸術家となりました。

しかしカトリックとプロテスタントの争いにより1526年イギリスへと渡ります。

一旦はバーゼルに戻りますがその後はイギリスで生涯を終えます。

1536年にはすでにイギリス国王ヘンリー8世のもとで宮廷のお抱え画家として最も有名な画家となりますが40代の若さで疫病のため亡くなりました。

『ヘンリー8世』

ハンス・ホルバイン『大使たち』② 全体

1533年 板に油彩 207×209.5㎝ ロンドン・ナショナルギャラリー蔵

この絵は縦の長さが2メートルほどもあるためほぼ等身大に近い大きさで描かれています。

威風堂々とした恰幅の良い貴族と聖職者と思しき二人の男性がじっとこちらを見つめています。

その風貌から彼らが当時まだ20代の青年であることは驚きです!

20歳以上年上の管理人よりよっぽど風格があります((笑)!

 

背景の鮮やかな緑の幕が、左の人物の衣装とテーブルに掛けられた布の赤といわゆる補色関係にあり鮮やかな対比が目を引きます。

二人の間には棚が置かれ彼らの所有物なのか様々な調度品や楽器、書物などが雑然と置かれています。

そして彼らの足元にはなにやら得体のしれない物体(細長い円盤のようなもの)が描かれ、これだけ緻密に整然と描かれた作品の中で唯一位置感を持たない状態で描かれています。

パット見たときにはそれほど気にならないのですが、一度気づいてしまうとがぜん気になりますね!

ハンス・ホルバイン『大使たち』③ 二人の人物は誰なのか?

ではここに描かれている二人の人物はいったい誰なのか、見ていきましょう。

まずは向かって左側の人物から。

名前はジャン・ド・ダントヴィユ(Jean de Dinteville)実は彼がこの絵の注文主です。

見るからに豪華な衣装を身に着けているところから位の高い人物であることが伺えますが、このダントヴィユがタイトルとなっているフランスからイギリスに派遣された『大使』なのです。

彼の衣装は豪華そのもの。

山猫の毛皮を裏地とした重厚な黒いコートをはおい、その下には美しい光沢を放つピンクの絹地の服を着ています。

頭には彼の記章であるドクロがついており、胸には位の高い騎士の勲章のペンダントが下げられています。

またダントヴィユの右手に持っている金の短剣には「AET.SUAE 29」という文字が刻まれていて、これはラテン語の略でダントヴィユの年齢が29歳であったこと示しています。

 

一方、向かって右側の人物はイギリスを訪問中だったラヴ―ルの司教、ジョルジュ・ド・セルヴ。

二人は友人であり、当時ローマカトリック教会と関係を絶とうとしていたイギリス国王ヘンリー8世を思いとどまらせるという難しい任務を負ってイギリスに滞在していました。

(結局この任務は失敗に終わり、イギリスはカトリックから飛び出して独自のイギリス国教を作ります)

セルヴは古典学者でもあり大使として多くのヨーロッパ諸国に派遣されていました。

画中でセルヴが右ひじを乗せている書物の側面には25歳という彼の年齢が記されています。

ハンス・ホルバイン『大使たち』④ 描き込まれたメタファーとしてのモチーフ

伝統的なヨーロッパの肖像画では、描かれた人物の地位や教養の高さを示すために書物や所有物が一緒に描き込まれることが良くあります。

この「大使たち」は特にその特徴が強く、かなり多くの品々が二人の間に置かれた棚に無造作に置かれています。

そしてこれらの品々は、実は単に見せびらかしているのではなくそれぞれがメタファーとして様々な意味が隠されているのです。

例えばダントヴィユが肘をかけている一番上の棚にあるのは主に天体観測に用いる科学器具です。

一番左、青い地球儀のように見えるのは天球儀です。

表面には動物や星座の絵や名称がラテン語で克明に描かれています。

その横には円筒形の日時計、さらに象限機(しょうげんぎ、四分儀ともいう)と呼ばれる天体観測や時刻を調べるのに使う道具です。

 

そして下の段には音楽に関わる楽器や楽譜、コンパスや地球儀(1523年ニュールンベルグで発売されたもの)、T定規が挟まれている書物(これは1527年に出版されたドイツの数学の本)などは彼らの知性と教養の高さを示しています。

この地球儀には印がつけられポリジーPolisyという地名が描き込まれていますが、(実際にはこの程度の地球儀にそこまで詳しく地名が書かれていないはずなのですが)この地がまさにダントヴィユの城がある領地であるため、ダントゥヴィユが書かせたとも考えられます。

この作品自体も当初はその城に掛けられていました。

またその横にはリュート、ルター派の讃美歌集、フルートケースなどが置かれています。

この図からは分かりづらいですが、実はリュートの弦が一本切れて描かれています。

これはカトリックとプロテスタントの間で高まりつつあった対立への言及ともとらえられ、讃美歌集が宗教の調和を求める嘆願が込められているのではないかとも言われています。

 

以上のようにこれら克明に描きこまれた数々の品は、音楽、数学、天文学、地理学を意味していますが、これらは中世の大学において「四学」を示し彼ら二人の人物の教養の高さを示しているのです。

※「四学」は算数、幾何、天文、音楽を指し中世の大学で必修とされたリベラルアーツ(教養)のこと。

ハンス・ホルバイン『大使たち』⑤ 歪んだドクロの秘密

見えないドクロ~アナモルフォーシス

「大使たち」はまるで写真のように正確でリアリティのある作品ですが、この絵の魅力はそれだけではありません。

最も気になるのは、前述した彼らの足元に位置する把握できない斜めに伸びたような円盤状のもの。

これはいったい何なのでしょうか?

答えは…極端に斜めに引き伸ばされたドクロ(骸骨)です。

これは正面から見るのではなく、かなり絵に近づいて右斜めから見るとしっかりとドクロであることが確認できます。

 

 

上手の赤い矢印の方向から見るとこうのように髑髏が見えます。

皆さんは「アナモルフォーシス」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

ほとんどの方が「?」と首を傾げるような聞きなれない言葉だと思いますが、その意味を簡単に言うと作品を『そのまま見ても何か判別できないが、角度を変えたり円筒などに投影したりすると何かが分かる図像のこと』です。

だまし絵とはちょっと違うのですが、見方、見る位置を変えると本当の姿が見えてくるということなんですね。

そしてこの大使たちに描かれているドクロこそが西洋美術の歴史の中で最も代表的な“アナモルフォーシス”なのです。

「アナモルフォーシス」の例。 円中の下に敷かれた紙にはぐにゃりと曲がった図像。これが円柱(鏡になっている)に映すと真円の地球が見えます。

 

ハンス・ホルバイン『大使たち』⑥ なぜ歪んだドクロが描かれたのか?

ドクロは洋の東西を問わず人の死を意味し、時には死神そのものとして描かれてきました。

では一体なぜホルバインはこの不吉の象徴である髑髏を、一見分からないようなかたちでこの絵に描き込んだのでしょうか?

ここでは3つの仮説をご紹介してみたいと思います。

髑髏が描き込まれた理由-仮説①この絵は世界を表現している

1つ目の説はこの髑髏の位置と棚に描かれ品々との関係に着目したものです。

つまり棚の上下それぞれの段には、共通するものが置かれています。

それらは段によって区切られることで世界を分けているのです。

つまり上の段は天を表し、下の段はこの私たち人間の世界、そして床は死の世界です。

このように二人の肖像がでありながらこの世界すべてを比喩として描きこんだというものです。

 

髑髏が描き込まれた理由-仮説②ヴァニタスとして描かれた

二つ目の説はある種の教訓として描かれたというものです。

西洋美術の伝統のひとつに「ヴァニタス」という寓意画としての静物画のジャンルがあります。

「ヴァニタス」とは「人生の虚しさ」のメタファーであり、こちらの作品のように豪華な品々とともに死を意味する髑髏や時間、人生の短さを表す時計、加齢や衰退を意味する熟れた果実といったものが描かれ間接的に地上の人生の虚しさや虚栄のはかなさを表現しているのですが、この「大使たち」もまたこの世の春を謳歌する若もたちもいつか死んでしまう。この地上(現世)でいかに富や力を手にしていようとも、私たち人間すべてに死が来ることを思い出させているのです。

『ヴァニタス』画の例。Adriaen van Utrecht,

 

この堂々とした気品と力溢れる二人の若者は、地位や富、権力、教養、全てを手にしている者として描かれていますが、しかしだからこそこの二人の足元に髑髏は描かれたというものです。

髑髏が描き込まれた理由-仮説③イコノグラフィーとして描かれた

三つ目の説は伝統的な「イコノグラフィー」つまり西洋絵画におけるお約束として描かれたというものです。

これは髑髏と同じく一見して分かりづらいのですがダントゥヴィユの背後、カーテンの隙間から十字架がひっそり見える程度に描かれています。

この十字架と骸骨をセットとして考えるとゴルゴダの丘におけるキリストの十字架の足元には髑髏が置かれるというのは「伝統的イコノグラフィー」でお決まりの構図です。

ですのでそういう意味で足元=地面に髑髏が描かれたのではないか?とする説です。

 

『磔刑図」マンテーニャ作。 十字架に架けられたキリストの足元に小さな髑髏が見えます。

 

以上3つの仮説をご紹介してきましたが、西洋絵画にはこのようにいくつもの約束事や背景がありそこからいろんな読み解きができるのもこの絵の魅力ですね。

ハンス・ホルバイン『大使たち』 まとめ

いかがでしたか?

今回はハンス・ホルバインの「大使たち」について細かく解説してみました。

こうした「絵解き」「謎解き」という文化は近代まで続く西洋美術の伝統でもあります。

いつもは絵なんて「難しくて良くわからない」とか「何が言いたいのか理解できない」なんて言ってなかなか美術に興味が持てない方も西洋美術にこうした知的好奇心を刺激するような要素がふんだんに取り込まれていますので、そうした観点から美術に親しんでいただけると嬉しいですね。

同じようなアプローチの記事がこのほかにもありますのでこちらも是非合わせてお読みください。

・【美術館での手引きに】西洋化がを読み解くための《象徴(シンボル)寓意(アレゴリー)》をご紹介します。(前編)

・【美術館での手引きに】西洋化がを読み解くための《象徴(シンボル)寓意(アレゴリー)》をご紹介します。(後編)

・【美術館で思い出して!】美術鑑賞の手助けとなる西洋絵における”象徴と寓意”いついて解説します。

・【寓意と象徴】絵に描かれたものには意味がある?

]]>
https://art-whitecanvas.com/holbein_the_ambassadors/feed/ 0
西洋絵画オールスター大会!?『メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』展覧会レポート! https://art-whitecanvas.com/metroporitan2022-met-exhn-jp/ https://art-whitecanvas.com/metroporitan2022-met-exhn-jp/#respond Sat, 16 Apr 2022 10:25:23 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4636 こんにちは。管理人の河内です。

今回は現在東京・六本木にある国立新美術館で開催中の『メトロポリタン美術館展』を見てきましたのでそのレポートをしてみたいと思います。

この展覧会は私がちょうど年末、関西に帰省中に大阪市立美術館で開催中だったのを時間が取れずに見逃していた展覧会でしたのでとても楽しみにしていた展覧会です。

今展覧会では、世界最大級のコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する“主要作品が一挙来日”“西洋絵画500年”と銘打ち、選りすぐった絵画65点を展示しています。

またそのうち46点が日本初公開”という事で、出品画家を見てみるとフェルメールからレンブラント、ラファエロにルーベンスと西洋絵画の錚々たる巨匠の名が連ねていて美術ファンなら期待せずにはおられない展覧会でしたが・・・その内容、実際の感想やいかに!?

ぜひご覧ください。

メトロポリタン美術館展① 【展覧会概要】


会場:国立新美術館企画展示室1E 東京六本木

会期: 2022年2月9日(水)~5月30日(月)

開館時間:

10:00~18:00 (金・土は20:00まで)

休館日 火曜日(5月3日(火・祝は開館)

主催:国立新美術館、メトロポリタン美術館、日本経済新聞社、テレビ東京、TBS ほか

後援:アメリカ大使館

公式ウェブサイト:https://met.exhn.jp/

問い合わせ:TEL050-5541-8600 (ハローダイヤル)

 

メトロポリタン美術館展② メトロポリタン美術館ってどんな美術館?

メトロポリタン美術館は、アメリカ・ニューヨークのマンハッタン、セントラルパークの東にある世界最大級の美術館です。

1870年の開館以降、基金による購入や様々なコレクターからの寄贈によって収蔵品数を増やし、関係者達の努力の結果、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品のほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵する世界最大級の私立美術館となっています。

そのコレクションは数だけでなく幅も極めて広く世界のあらゆる時代、文化、文明を網羅しています。

 

メトロポリタン美術館展③ 見どころ

では今回の展覧会の見どころを解説していきましょう。

今回の見どころはやはり上述したようにこの世界最大級の美術館が誇る西洋美術の至宝、2500点にも及ぶ絵画コレクションから選ばれた巨匠たちの絵画65点が展示され、うち46点もが日本初公開ということで期待せずにはおれません。

 

ルーベンス、ベラスケス、レンブラントからフェルメールにカラヴァッジョ。

果てはモネ、ゴッホとこのブログでも取り上げてきた西洋美術ファンなら誰もが知っている巨匠たちの夢の競演!まさにオールスター軍団です!(^^)!

会場は3つの展示室で構成されており、入り口から「Ⅰ信仰とルネサンス」「Ⅱ絶対主義と啓蒙主義の時代」「Ⅲ革命と人々のための芸術」と大きく時代によって区分されていて、初期ルネサンス(15世紀)から印象派(19世紀)まで、副題にあるようにまさに『西洋絵画500年』の西洋美術の歴史を一気に俯瞰できる展示構成となっています。

ただところ今回はところどころ順路が分かりづらくどちら周りから観ればよいのか分からず引き返したり見落としそうになる場所もありましたので入り口でもらえる出品リストのマップを見ながら確認された方がよいと思います。

メトロポリタン美術館展④ 主な出品作品

ではここで今回展示されている作品をいくつかご紹介してみたいと思います。

『羊飼いの礼拝』エル・グレコ 1605₋10年頃 油彩/キャンバス

 

『オリバーレス伯公爵ガスパール・デ・グスマン』 ベラスケスと工房 1636年頃/以降 油彩/キャンバス

『髑髏と羽ペンのある静物』ピーテル・クラース 1628年 油彩/キャンバス

『音楽家たち』カラヴァッジョ 1597年 油彩/キャンバス

『女占い師』ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 1630年代 油彩/キャンバス

『信仰の寓意』ヨハネス・フェルメール 1670₋72年頃 油彩/キャンバス

『フローラ』レンブラント・ファン・レイン 1654年頃 油彩/キャンバス

『ヴェルファイア、サンタマリアデッラサルーテ聖堂から望む』 ウィリアム・ターナー 1835年頃 油彩/キャンバス

『ヒナギクを持つ少女』オーギュスト・ルノワール 1889年 油彩/キャンバス

『踊り子たち、ピンクと緑』エドガー・ドガ 1890年 油彩/キャンバス

『リンゴと洋ナシのある静物』ポール・セザンヌ 1891₋92年ごろ 油彩/キャンバス

『ヴィルヌーブ=ラ=がレンヌの橋』アルフレッド・シスレー 1872年 油彩/キャンバス

メトロポリタン美術館展⑤ 私的感想

ではここからは実際に管理人自身が足を運びこの目で見てきた展覧会の様相と忌憚のない感想を述べてみたいと思います。

ですのでこれはあくまでも管理人個人の主観によるところとご承知ください。

 

私が見に行ったのは4月の前半。いつものように平日の午前中でした。

すべてのコロナ警戒措置が解かれているとはいえ、まだまだ感染者数が多い中ではありましたがポカポカ陽気の元、この日も多くのお客さんで美術館は賑わっていました。

 

コロナ以降標準化したチケットの事前予約と時間指定による入場制限はありましたが、私自身は平日だから大丈夫だろうと踏んで予約なしで直接美術館に向かいました。

結果、大勢のお客さんが来場していたものの無事当日券が取れて観ることができました。

 

では実際会場の雰囲気と作品についてはどうだったでしょうか?

会場は上述したように時代の流れに沿って3つの展示室に区分けされています。

 

出品画家はまさに西洋美術オールスター!巨匠たちがズラリ。

展示室の初っ端から個人的に大好きな初期イタリアルネサンスの巨匠フラ・アンジェリコがお出迎えしてくれます。

続けてギルランダイオ、フィリッポ・リッピ、ラファエロと続き、クラーナハ、ティツィアーノ、フェルメール、ルーベンス、ベラスケス・・・美術ファンならまさにヨダレが止まらないビッグネームが最後の第3展示室のゴッホ、モネまで続きます。

 

しかし・・・これはあくまでも名前だけ、、の話でした(T_T)

 

私の個人的点数を言うと60点(100点満点中)です(>_<)。

 

ちょっと厳しめの点数かもしれませんがこれだけのメンバーを揃えつつ、かのメトロポリタン美術館ともあろう世界に冠たる大美術館から持って来たにしてはなんとも物足りないというのが率直な感想でした。

もちろんどれも真筆でしょうが、画家個人の画集に乗るような作品と言えるようなものはわずか。

だからと言って決して悪いわけではないのですが、誰もが知っている作品であるとか代表作と呼べるものはジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「女占い師」くらいでしょうか。

 

ティツィアーノやエル・グレコなどなかなか良い作品もあったにはありましたが如何せん食い足りなさが残ります。

 

例えて言うならファミリー向けのビュッフェレストランのようです。

料理はカニからお寿司、焼肉、中華にイタリアンと品ぞろえが豊富で一見豪華ですが、どれも「これは旨い!」と唸るようなもの(高級店で出されるような料理)はなく、「そこそこ旨い」そんな感じでした。

 

こうした美術館展にはままあることですが、それでも2,3点は「あの作品が来る!」といった目玉作品があるものですが今回はそれも…

私がオールスターの名前に釣られて期待を膨らませすぎたのかもしれませんが…

 

 

メトロポリタン美術館展⑥ まとめ

いかがでしたか?

今回は管理人が個人的に期待を膨らませ過ぎたのかもしれませんが、なんとも物足りない展覧会でした。

もちろん巨匠揃いの展示でしたのでそこそこの質は保たれてはいますが、教科書に載っているような誰もが知っている作品だとか、忘れられない作品に出合うことは残念ながらできませんでした。

コロナ前、日本の美術ファンの方はルーブル美術館やウフィツィ美術館を実際に訪れた方も多いと思いますので目が肥えてらっしゃる方には歯ごたえがないように感じる展示かも知れませんが西洋美術史を俯瞰して眺めてみたいという方には良いかもしれません。

ちょっと今回は厳しめの評価になってしまいましたが、これはあくまでも私個人の感想ですのでご承知ください(;^ω^)

次は4月後半に始まるスコットランド国立美術館展(https://greats2022.jp/)が同じようなメンバーで始まりますのでこちらに期待したいと思います。

]]>
https://art-whitecanvas.com/metroporitan2022-met-exhn-jp/feed/ 0
『ミロ展ー日本を夢見て』を見てきました! [展覧会レポート] https://art-whitecanvas.com/miro-exhibition2022-bunkamura/ https://art-whitecanvas.com/miro-exhibition2022-bunkamura/#respond Wed, 02 Mar 2022 01:35:07 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4615 こんにちは。管理人の河内です。

この2,3年はやはりこのコロナ禍で大規模な美術展が見られる機会が減っていますよね。

特に海外作品は渡航制限や作品を借りる相手先の感染状況などもあると思いますが美術ファンとしても寂しい限りです。

そんな中、この春東京に管理人の大好きな画家、ミロがやって来ました!

日本の美術界では近年の「写実ブーム」と相変わらずの「印象派」や「フェルメール」人気に押され、こうした抽象的な作品を見る機会が本当に減っていました。

私が画学生だった25~30年前は、むしろ抽象画やポップアートなど前衛的な現代美術展の方が圧倒的に数も多く、海外の気鋭作家が紹介されることも多かったのですが最近ではほとんどお目にかかることがなくなりました(;´Д`)

その頃すでにミロはピカソ同様古典とすら言える画家となっていたのですが、本当に素晴らしい作品というのはいつまで立っても感動を与えてくれますし、今だからこそなのかもしれませんが新鮮で純粋な美術の喜びを与えてくれる、特にミロはそういう作家だといえますね。

今回はそんなミロの20年ぶりの大回顧展を見てきましたのでご報告してみたいと思います。

ミロ展① 展覧会概要

今回の『ミロ展-日本を夢見て』の概要は以下の通りです。

【会場】 Bunkamura ザ・ミュージアム  (東京都渋谷区道玄坂2-24-1)

【会期】 2022/2/11(金・祝)~4/17(日)

(休館日2月15日(火)、3月22日(火))

開館時間: 10:00-18:00(入館は17:30まで)
毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)
※金・土の夜間開館につきましては、状況により変更になる可能性もあり。

予約等詳細や、最新の開館状況は展覧会公式サイトをご確認ください。

【入場料】

一般1800円(前売1600円) 大学生・高校生1,000円(前売800円)中学生・小学生700円(前売500円)

※注)会期中すべての土日祝および4月11~17日は事前のオンラインによる入場日時予約が必要です。

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/22_miro/topics/nichiji.html

主催: Bunkamura、東京新聞、フジテレビジョン

問い合わせ先:050-5541-8600(ハローダイヤル)

公式アドレス https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/22_miro/

ミロ展② 展示内容

日本国内では20年ぶりとなる待望の大規模回顧展です。

ピカソと並ぶ20世紀スペインの巨匠ミロ。

故郷への深い愛情を持つ画家として知られていますが、実は見本文化にも深い造詣があり、今展では日本とのつながりにスポットを当てています。

ヨーロッパを席捲したジャポニズムの嵐に若きミロも強い影響を受けた初期の作品から代表作までを展示。

56年ぶりに来日するマドリードの傑作《絵画(カタツムリ、女、花、星)》や、ミロ愛蔵の日本の民芸品、さらに詩人で批評家の瀧口修造との交流を示す多彩な資料などを4つのポイントでたどっています。

ミロ展③ジョアン=ミロとは?

ジョアン=ミロ。 ピカソとともに20世紀スペインを代表する最も多彩で大きな影響力をもった画家。

ミロは1893年、スペインのカタルーニャ地方バルセロナに生まれました。

父は金銀細工師兼時計屋、祖父は鍛冶屋という職人の家系に生まれました。

ミロは幼いころから画家を志していましたが、父はミロの希望を聞かず簿記係の仕事に就くことを強いました。

希望を失ったミロは体を壊し精神衰弱に陥り、タッラゴーナ近郊のモンロッチで静養します。

その後1919年、26歳の時にパリに出て当時前衛だったピカソやシュルレアリズムの画家たちと出会います。

その影響を受けつつも次第に独自の世界を展開。興味の沸くまま天性のユーモア感覚をもって自由な表現を追求。

伝統的な絵画の範疇にとどまらず壁画や版画、焼き物、彫刻など様々な表現を試み20世紀の画家たちに多大な影響を残しました。

ミロ展④ 展示の流れ

今回会場となったのは東京・渋谷の東急文化村にあるBunkamura ザ・ミュージアム。

平日午前にも関わらず多くのお客さんが来場していました。

展示の流れは次の通り。

Ⅰ日本好きのミロ

Ⅱ画家ミロの歩み

Ⅲ描くことと書くこと

Ⅳ日本を夢見て

Ⅴ二度の来日

Ⅵミロの中の日本

ミロのアトリエから

といったセクションに分かれています。

 

まず入口から。

「Ⅰ日本好きのミロ」では初期の油絵「アンリク・クリストフル・リカルの肖像」や「花と蝶」

「「シラウナ村」など初期の油絵とミロが当時熱愛した浮世絵などが展示されています。

『花と蝶』 1922‐23年 横浜美術館蔵

 

『シラウナ村』 1917年 吉野石膏コレクション

実は管理人が個人的に一番好きなミロのスタイルがこの頃のモンロッチをテーマとして、シュルレアリスムの影響を受けていた時期(↓こんな感じの作品)なのでここでもっと作品のボリュームが欲しかったところです、残念(T_T)

『農場』1921年 ヘミングウェイが買った作品としても有名。 ※注!)この作品は展示されていません。

 

そして「Ⅱ 画家ミロ」、「Ⅲ 描くことと書くこと」では抽象化した人物や生物などと日本の書からの影響やカリグラフィックな鋭い線、鮮やかな色彩を使ったいわゆる「ミロらしい」作品が並びます。

『ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子』1945年 福岡市美術館蔵

続く「Ⅳ 日本を夢見て」「Ⅴ 二度の来日」のコーナーでは戦後ミロがようやく来日を果たした当時(この時ミロはすでに73歳でした)の写真や資料、詩人で批評家の瀧口修造らとの交流の資料、当時の出版物などを展示。

ミロの絵画というよりも焼き物やミロが表紙デザインした雑誌、草稿、リトグラフ(ポスター)などが多く展示されています。

『スペインを救え』1937年 ニューヨーク近代美術館蔵 ミロがスペイン内乱に際して祖国救援のために制作した版画。

そして「Ⅵミロの中の日本」では来日後それまで以上に日本への影響を色濃く反映した作品、特に実際の書家から得たインスピレーションは大胆な墨を使い、生き物のようなダイナミックな線など色濃く反映した作品が並んでいました。

 

そして最後の「ミロのアトリエから」では、実際のマジョルカのミロのアトリエの巨大な写真とミロが所蔵していた日本の民芸品が展示されています。

 

ミロ展⑤ 個人的感想

実はミロは、管理人が芸大を目指していた浪人時代、最も影響を受けた画家のひとりであり、私自身の作品の転機を与えてくれた個人的に思い入れの深い画家でした。

なので今回はいつもより期待値が大きかったのでそれを差し引いても、個人的感想をはっきり言うと「物足りなかった!」というのが本音です。

特に前述したように初期のシュルレアリスムの影響を受けていたい頃の作品は少なかったのもありますが、作品の絶対数が少なく、さらに所蔵者の欄を見てみると展示作品のほとんどが日本国内の美術館から集められていて海外の有名美術館が所蔵する代表作がほとんどありませんでした。

 

管理人はこのあたりの作品が特に好きです(*^_^*) ※注!今展では展示されていません。

その理由としてはもちろん海外との往来が厳しく制限されているコロナ禍であるといいうことは言うまでもありませんが、コロナの影響がこんなところにも出ているんだなと悲しい気持ちにもなりました。

その代わりといっては何ですが資料的なものが多く展示されていて、あまり知られていなかったミロと日本のつながりについての発見は知的興味という意味では楽しかったです。

やはり久しぶりのミロ展ということもあり、これぞミロ!と唸る作品をもっと見たかったというのが本音ですね(;^ω^)。

ミロ展⑥ まとめ

いかがでしたか?

今回は現在開催中の「ミロ展」についての報告と個人的感想を書いてみました。

展示数としては物足りなさは残りますが、展示されている作品自体は面白かったですしコロナの影響で展覧会が減っている今、美術館応援という意味でも少しでも美術館に通ってみてはいかがでしょうか。

 

]]>
https://art-whitecanvas.com/miro-exhibition2022-bunkamura/feed/ 0
ゴッホ展2021  響き合う魂ヘレーネとフィンセント レポート Collectinng Van Gogh: Helene Kroller₋Muller’s Passion https://art-whitecanvas.com/gogh_exhibition2021/ https://art-whitecanvas.com/gogh_exhibition2021/#respond Thu, 30 Sep 2021 06:19:49 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4592 こんにちは、管理人の河内です。

今回は約1年以上ぶりの展覧会レポートとなります。

昨年より続くコロナ禍によって多くの展覧会が中止や延期を余儀なくされる中、私を含めたくさんの美術ファンの方が生で名作を見ることに飢えていること思います。

10月から長らく出されていた緊急事態宣言が終了し、季節も良いことから多くの美術ファンがお出かけになられると思いますがしっかりと感染対策をして美術館に足を運んでいただければと思います。

では待望のゴッホ展やいかに?管理人の私的感想も含めてレポートしてみたいと思います。

ゴッホ展① 展覧会概要

今回レポートするのは東京会場で開催中の様子です。

概要は以下の通りです。


会場:東京都美術館企画展示室

会期:2021年9月18日(土)~12月12日(日)

月曜・9月21日(火)休館 ※9月20日(月・祝)、9月27日、11月8日(月)、11月22日(月)11月29日(月)は開室

開室時間:9:30~17:30(入室は17:00まで)

展覧会公式サイト:https://gogh-2021.jp/

館展覧会の問い合わせ: ハローダイヤル 050-5541-8600

主催:  公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、TBS、東京新聞特別協賛

入場料:一般2,000円 大学生・高校生1,300円 高校生以下無料ですが小学生以上は日時指定予約が必要。 65歳以上1,200円

今展覧会も入場券は日時指定のネット予約販売となっています。

当日券も一部販売されているようですが、こちらのツイッターで情報を発信しているようなので、当日券をお考えの方はご確認ください。

https://art-ap.passes.jp/user/e/gogh-2021

https://twitter.com/vanGogh_ticket

展示内容:

オランダ、クレラー=ミュラー美術館所蔵のゴッホコレクションからパリ時代の作品《レストランの内部》、アルル時代の《種まく人》サン=レミ時代の8《夜のプロヴァンスの田舎道》など油彩画28点、素描・版画20点を展示。そしてアムステルダムのファン⁼ゴッホ美術館から《黄色い家》など4点が出展。

その他ミレー、ルノワール、スーラ、ルドン、モンドリアンらの作品20点も展示されています。

 

ゴッホ展② クレラー=ミュラー美術館Kröller Müller Museumt とは?

ではまず初めに、今回の展覧会出品作の柱となる作品を所蔵しているクレラー=ミュラー美術館について見ておきたいと思います。

クレラー=ミュラー美術館は、オランダのヘルダーラント州、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内のオッテルロー村にあります。

実業家のアントン・クレラー・ミュラーと、その妻ヘレーネ(ヘレン)・クレラー・ミュラー夫妻が1908年当時、まだまだ世に知られていなかったゴッホの作品に魅了され約20年にわたって90点を超える油彩画、180点の素描、版画を収集し世界最大のゴッホコレクションを形成しました。

これをもとに1938年クレラー=ミュラー美術館が開設され、ヘレーネは初代館長を務めました。

大もとのクレラー・ミュラー美術館のサイトではこのように紹介されています。『クレラー=ミュラー美術館はフィンセント・ファン・ゴッホの第二の故郷です。約90点の絵画と約180点の素描を所蔵する当美術館は、世界で2番目の規模のファン・ゴッホ・コレクションを所有しています。』https://krollermuller.nl/jp/fan-gohho-gyarari

ゴッホ展③ 展示の流れ

今回私が見てきた会場は、上野恩賜公園内にある東京都美術館(通称:都美館)です。

行かれたことのある方はご存じかと思いますが、この都美館は地下が入り口となっているためいったんエスカレーターで地下におりますので展示会場のスタートも地下階からとなりその後1階(地上階)、2階へと進んでいきます。

1芸術に魅せられて / 2ヘレーネの愛した芸術家たち:写実主義からキュビズムまで

ではまず地下、最初にヘレーネの肖像画に続きゴッホ「療養院の庭の小道」がお出迎え。

その後は、ゴッホはひとまずお預けでミレーやルノワール、スーラなど写実主義から印象派、そしてキュビズムのブラック、抽象画のモンドリアンまでゴッホ以外で19世紀後半から20世紀美術の流れを見せてくれます。

一人の画家につきほぼ一点ずつでなかなか良い作品もありました。

個人的にはルドンの代表作「キュクロブス」やモンドリアンがまさかゴッホ展で見られたことが嬉しかったですね。

3ファン・ゴッホを収穫する

3-1素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代

ここからはエスカレーターで1階に上がります。

ここではゴッホが故郷オランダで画家を志して絵の勉強を始めたころの作品が並びます。

画家への第一歩はまず素描(デッサン)から、ということで紙にペンやインクを使った素描、主に人物画が多く粗削りですがこの時点ですでにゴッホらしさが見て取れます。

 

3-2 画家ファン・ゴッホ、オランダ時代


ここではゴッホがデッサンから油絵を描き始めたころの作品が並びます。

ゴッホまずは親戚筋の画家に油絵の手ほどきを受けたあと、バルビゾン派や地元の画家たちの影響を受けかなり暗い雰囲気の静物画や風景画を描きました。テーマとしてはゴッホ前期の代表作「ジャガイモを食べる人々」へと続く当時の苦しい農民生活を描いています。

 

3-3 画家ファン・ゴッホ、フランス時代

 

こちらのコーナーではゴッホがいよいよパリに出て本格的に画家として活動する時期の作品が並びます。

最先端のパリでオランダ時代の画風がすでに古いものだと認識したゴッホは、印象派や新印象派の画家たちとの交流を経て明るい色調と、アドルフ・モンティセリの影響で後の荒々しい画風につながるタッチを生かして描く画風が生まれてきました。

そしてこの階の最後には、特別出品としてアムステルダムのゴッホ美術館より代表作「黄色い家」、ゴッホにしては珍しい海の絵「サント=マリー=ド=ラ=メール」など4点が展示されています。

管理人は学生時代、実際にアムステルダムのゴッホ美術館に行ったのですがその時の感動は覚えていますが、個々の作品の記憶は薄れていたので改めて「黄色い家」を見たときにその大きさと遠景に汽車が走っていたこと発見しちょっと嬉しくなりました(*^^*)

3-3-2アルル、3-3-3 サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ

ここから最後の2階会場となります。

この展示ではいわゆる多くの方がイメージするゴッホらしいゴッホが並びます。

南仏アルルの強い陽光と青い海、青い空、パリにはない明るい日差しによってゴッホの色彩は彩度を増しさらに精神の病によって激しさを増した筆致、これらが結びついて一気にゴッホワールドが花開いた時代です。

有名なエピソードである前述の「黄色い家」でゴッホは希望に満ちて芸術家仲間によるコロニーを作ろうと準備しますが、来たのはゴーギャンだけ、そのゴーギャンもかの「耳切り事件」で2か月で破綻しました。

希望と絶望でゴッホはさらに精神を病み、自ら入院をするなど過酷な時代でもありましたが、時折襲う激しい発作と闘いながらゴッホ芸術が頂点を極めた時代でもありました。

このあたりのエピソードにつきましては、こちらの記事に詳しく書いてありますので合わせてご覧ください。

 

ここで今回の展覧会のメイン「夜のプロヴァンスの田舎道」が最後に登場します。

ゴッホ展④ 管理人的感想

ざっくりと今回の「ゴッホ展」の展示を順路を追って見てきましたが、ここで管理人的感想を述べてみたいと思います。

初めにも書きましたように、このコロナ禍で一年もお預けを食っていたこともありますが、はやり単純にゴッホは何度見ても良いですね(*^_^*)

もちろんすべてが傑作というわけではありませんが、何度見ても感動します。

今展では「ひまわり」ほどの有名な作品が来ているわけではありませんが、オランダ時代から晩年までの作品を通して見られることでゴッホがどのような道をたどってゴッホになったのかを俯瞰して見られますし、解説なども読むとゴッホもただ感情に任せて絵を描いていたのではなく、かなりいろんな画家の影響を受けいたり、アカデミックな勉強もしていたことがわかり興味深いですね。

個人的に強調したいのはあの激しい色彩やタッチに目が行きがちですが、絵はそんな単純なものでは描けません。

それらが激しければ激しいほど一つの画面上でバランスを取り作品として成立させるのは難しいのです。

ゴッホがそうした“強い表現”をしつつもそれを可能にしているのはやはり“中間色”です。

特に今回出品されている作品で分かりやすいのが「レモンの籠と瓶」ですが、鮮やかなはずのレモンやテーブルに敷かれた布、背景の壁などがかなり優しい色使い、繊細で調和のとれた中間色で描かれています。

これは代表作「ひまわり」や「自画像」でも同じで、管理人はいつもこの激しさとは真逆の「柔らかさ」「やさしさ」に惹かれます。

「ひまわり」(注)今回は出品していません。

ゴッホには精神病や激情型の性格により感情をたたきつけたようなイメージをお持ちの方も多いとは思いますが、今回ゴッホをご覧になられる方は改めてそうしたゴッホの繊細さを見ていただければと思います。

今展覧会はそれほど作品数は多くはありませんが、一点ずつじっくり見るのには良い数ですのでぜひ近づいてご覧いただければと思います。

ゴッホ展まとめ


いかがでしたか?

ご存じのようにゴッホは生前には絵がたった一枚しか売れず、亡くなる少し前から注目する人も出てきましたが、ほとんど世間に知られることなく消えていった可能性もあったわけですが、このクレラー=ミュラー夫妻のような情熱と財力、本当の価値を見抜く人達によって“発見”されたことで100年以上たった現代の私たちもゴッホに出会えているということは一つの奇跡といえますね。

コロナ禍が続いてストレスの多い今こそ感染対策をしっかり行った上で、ゴッホの名画に触れて改めて芸術のすばらしさや重要性を感じられてはいかがでしょうか?

 

【ゴッホに関するその他のおすすめ記事】

【情熱の画家】 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ の画風と生涯をわかりやすく解説します!

【いかにして魂の画家は生まれたか】ゴッホの生涯を詳しく解説!

ゴッホの代表作を解説付きで紹介~ゴッホ作品解説

知っているようで知らない?ゴッホにまつわるエピソード

模写をするなら必見!ゴッホの技法

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?(前編) 

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?(前編)

]]>
https://art-whitecanvas.com/gogh_exhibition2021/feed/ 0
現代アートはなぜ高い?その始まりの画家ホイッスラーをご紹介します。 https://art-whitecanvas.com/whistler/ https://art-whitecanvas.com/whistler/#respond Mon, 06 Sep 2021 09:42:43 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4573 こんにちは。管理人の河内です。

突然ですが、皆さんは美術作品は何となく高いというイメージがありませんか?

古くはバブル時代の日本でゴッホやルノワールの作品が数十億で売買されたり、最近でも2017年にあのレオナルド・ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」が504億円で落札されて話題となるなど、気の遠くなるような値がついた話はよく耳にします。

ゴッホ「ひまわり」損保ジャパン日本興亜美術館蔵

レオナルド・ダ・ヴィンチ『サルバトール=ムンディ』

しかしこれらは作品そのものにだけついた値段でなく、描いた画家がすでに他界していて歴史的価値や希少性など付随する価値も大きく値段に影響していると言えます。

その一方でデイヴィッド・ホックニーなど存命中のアーティストであっても飛んでもない高額(100億円以上)で取引されていることもあります。

 

その一番有名なアーティストがバンクシー。「芸術テロリスト」なんて呼ばれ方もする神出鬼没の謎多き画家として有名ですが、彼(?)の作品などはちょっと見ればただの落書きにしか見えないものに数十億円の値段がついたりして話題になりましたよね。

実際に地下鉄の中に描かれたバンクシーの作品が、清掃員によって間違えて消されたこともあるそうです(;^ω^)

バンクシーの作品。

こういったニュースを聞くたびに「なぜあんなものが数億円もするの?」「だからアートは良く分からない世界だ」と思う方がいても仕方がありませんよね。

今回は“あんなもの”になぜそれほどの高額な値がつくのか?つくようになったのか?

その始まりのお話をしてみたいと思います。

 

絵の値段とはどうやって決まっているの?

そもそも絵の値段はどうやって決まっているのでしょうか?

現代ではあまり有名でない画家などが個人で作品を販売する場合は、本人の言い値で決めることが多いですが、ある程度名の知れた画家となると専属のギャラリーと契約をして絵を販売するようになります。

その場合画家本人の希望だけではなくギャラリストがその画家の市場価値など広い観点から判断して決めることになります。

 

しかしこうした“絵の値段”のつけ方は、19世紀後半以降の話です。

それまでは画家はアーティストというより職人とほぼ同義で、依頼主がいてその求めに応じて絵を制作していました。

ですからその値段はまるで家を建てるときと同じで、木造にするか鉄筋コンクリートにするか、床材に何を使うかなどで金額が変わるように、まずは何を描くか?どれくらいの大きさで描くか?絵具にどれだけ高価な色を使うか?など依頼主と画家が協議しながら材料費を決め、それに職人の技術料やランクなどを足して決められていました。(もちろん建売り住宅のように、画家がすでに描いた作品から客が気にったものを買う場合もあります)

こうして決まった料金ですからある意味で“商品”としての適正価格だったといえるかもしれません。

19世紀後半に起こった「美術革命」

その後19世紀に入りご存知のようにイギリスで起こった産業革命や科学の進歩を経て写真が登場します。

写真はそれまで画家が長年にわたって磨き上げた技術をアッという間に飛び越え現実そのものを再現できるようになりました。

さらに市民革命によって画家たちの生活を支えていたパトロンである王侯貴族は没落し、

画家たちは失業の憂き目にあってしまいます。

市民革命によって画家のパトロンであった貴族は没落し地位や財産が奪われた。

こうした社会的、時代的背景から画家たちは生き延びるためにある種のイノベーションを起こすことに迫られます。

 

そこで登場した動きの代表格がご存じ「印象派」です。

印象派についてはここでは詳しく述べませんが、彼らはまだまだ保守的な世界にとどまっていた旧来の画壇を飛び出し、まさに新たな「美術の価値」を提唱し時代を切り開きました。

その「新しい価値」とはざっくりいうと、伝統的な決まり事を踏襲せず、画家個人の発想でそれまでなかったテーマを選び、新しい世界の見方や描き方を模索していったのです。

そのため彼らは保守的な美術界からは総攻撃を受けることになるのですが…

 

そして印象派に続くセザンヌやゴッホさらに20世紀のピカソへとつながる「新しい価値を創造することこそがアートである」という流れが生まれていきました。

 

「始まりの画家」ホイッスラー


ここで今回は日本ではそれほど有名ではありませんが、ある意味美術史上かなり重要な画家ではないかと管理人が思う画家ホイッスラーを取り上げてみたいと思います。

 

ジェームス・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler)は19世紀のイギリスで活躍した画家です。(1834~1903)

ラファエル前派や日本の葛飾北斎などからも影響を受け、風景画や肖像画を多く残しました。

ホイッスラーは幼い頃から絵の才能が認められ、若干11歳で美術学校に入学。21歳でパリに出て画家を目指します。

当時のパリは、新しい時代の新しい芸術を模索する若い画家たちの活力に満ち溢れホイッスラーもそのような空気の中で刺激を受けます。

帰国後ロンドンで画家デビューを果たし1862年に満を持して発表した「白のシンフォニーNo1白衣の女」を発表しますが結果は惨敗。ひどくけなされてしまいます。

しかし後年は一時イタリアのヴェネツィアで過ごした後、ロンドンに戻って1886年にはイギリス美術家協会会長に任命されるなど名実ともにイギリス画壇の中心人物となりました。

このホイッスラーの画風は耽美主義ともいわれます。

『白のシンフォニー』1862年 ワシントン・ナショナルギャラリー像

『白のシンフォニー』1862年 ワシントン・ナショナルギャラリー像

それは彼の目指した芸術が、作品に込められたメッセージや思想ではなく純粋に形態や色彩の調和を追求したことからこう呼ばれています。

こうした芸術的態度こそが、今回管理人があえて高額な美術の「始まりの画家」とした事件につながっていきます。

ホイッスラー名誉棄損訴訟

ではなぜこのホイッスラーが、現代美術の“価格高騰の始まり”と考えられるか解説していきたいと思います。

この作品をご覧ください。

1877年に発表されたこの作品、タイトルは「黒と金のノクターン(オールド・バターシー・ブリッジ)」

ロンドンを流れるテムズ川を描いた連作のうちの一枚ですが、この作品が物議をかもします。

現代の私たちがこの作品を見て、多少の好き嫌いはあるもののそれほど違和感を覚える絵ではないと思います。

霧で有名なロンドンのテムズ川とそこにかかる大きな橋。「ノクターン」というタイトルから、夜の抒情が感じられる雰囲気のある絵ですが、当時の人にとっては一体何を表現しているのか理解に苦しむ絵だったのです。

ホイッスラーはこの作品について「色彩と構図という純粋な絵画的要素だけで、絵画はその美を表すべきだ」と語っており彼独自の美意識を表現したと語っていたのですが、これに当時イギリス美術界の権威ジョン・ラスキンが嚙みつきました。

ジョン・ラスキン

その理由は、ホイッスラーがこの絵に当時の役人の年収の4倍という強気な値段を付けたことにありました。

現在の日本の役人(公務員)の平均年収をざっと調べたところ6百数十万ということなので安く見ても2500万円ぐらいでしょうか。

この価格に対しラスキンは「絵具を投げつけたような絵で、こんな高額な値段を付けるとは詐欺に等しい」「無教養な画家の、これはほとんど詐欺といって良い。まるで公衆の顔をめがけて絵具壺を投げつけたようなものだ」などとこき下ろしたのです。

これを聞いたホイッスラーは激怒。いわれのない中傷を受けたとして名誉棄損でラスキンを訴えたのです。

こうして二人は法廷で争うことになりました。

 

ラスキンはこの作品を「当時の常識をはるかに超えた絵だった。何を描いたのか判然としない絵など芸術ではない」と主張します。

これに対しホイッスラーは「これからの絵画は、形と色によって構成されていくもの。絵画とは何を描いたのかではなく、どう描くが問題なのだ」と主張したのです。

そしてなんと1000ポンド(約2000万円)もの賠償金を要求しました。

裁判の中で裁判官は絵に描かれた橋の上のおぼろげな影を指して「これは人間なのか?」とホイッスラーに尋ねました。

すると画家は「どうぞ、お好きにお考え下さい」と答えたといいます。

 

かくしてこの裁判の結果は、ホイッスラーの勝利に終わります。

しかし賠償金はたった銅貨一枚(約20円)でした。

つまり裁判所はホイッスラーの「貶された、名誉棄損された」という主張は認めましたがその芸術性や芸術的価値については触れなかったと言うことです。

管理人もこの判断は妥当だったと思います。

おそらく当時のイギリスだけでなくどこの国にも芸術的な価値を判断する基準は法律には書かれていないでしょうから。

しかしこの時のホイッスラーの主張はある意味で、画家が職人からアーティストへと変わったことを宣言し、美術の概念が大きく転換する先駆けとなったと管理人は思います。

このホイッスラーの主張はその後に続く前衛画家たちへと引き継がれ、今では普通のこととなっています。

 

美術価格高騰の二つの原因

①価格高騰の裏には価値の転換があった!

ホイッスラーのこの裁判での主張は美術の概念を大きく転換しただけでなく、その価格、つまり値段の付け方にも大きな変化をもたらしました。

そもそもこの裁判の発端は、ラスキンが「あんな酷い作品にあんな高額な値段をつけるのは詐欺だ」というところから始まりました。

つまり従来の価値観ではホイッスラーの絵は値が付かないほど酷いものなのに、2500万円もの値段を付けたところにそのポイントがあります。

前述したように絵の価格は画家のレベル(技術の高さや画壇での地位)、描かれているテーマ(絵のテーマごとにランクがありました)そして大きさ、材料費などによってある程度客観的に決まっていたといえますが、ホイッスラーはそれらを無視して自分の思うように表現し主観的価値観で値段(かなりの高額な)を付けました。

つまりこの時から絵の値段は現実的な価格設定から切り離され、あってないようなものとなったとも言えます。(しかし結局ホイッスラーの絵は誰も買いませんでした。当時の感覚としては大方がラスキンの言うように理解しがたい絵でしたから当然と言えば当然ですよね。)。

こうした概念の転換は、20世紀に入りマルセル・デュシャンの登場によってよりラジカルに起こります。

なんとデュシャンは自分で作品を作ることすらやめてしまい、工場で生産された既製品に自分のサインをしただけで「自分の作品」としたのです!

このデュシャンについてはまた別の機会に取り上げたいと思いますが、こうして美術作品の価値判断の基準は大きく変化しその「値段はあってないもの」と化していきます。

デュシャンの有名な作品「泉」(1917年)。男性用便器をひっくり返し、サインを入れただけで自分の作品として展示した。

そして現在に至っては作家のコンセプトや作品背景など、作品そのものを評価するのではなく(もちろん作品の独創性や美的観点も考慮される場合もありますが)その周辺を含んで価値や価格が決まるということになっていったのです。

 

これってなんだか骨董品に似ていると思いませんか?

例えばどれだけ粗末でボロボロの着物であっても、徳川家康が子供のころ来ていた着物だとなると途端に値段が跳ね上がるみたいな…(;^_^A

管理人が思うにたぶんグローバル化が進んで美の価値が多様化した結果、何を美しいと思うか美の基準も多様化し、そうした作品の“背景”や“物語”など多くの人が納得しやすい価値を付けないと誰も判断が付けられなくなったからではないでしょうか?

②美術価格高騰の裏にはグローバル資本があった!

そしてもう一つのポイントが同じく21世紀のグローバル化による美術市場の拡大です。

ある意味欧米先進国内での閉じられた美術市場が、イスラム圏や中国など新たな世界を巻き込んだことで世界中の富裕層が新たな投資先として美術本来の美的価値もそこそこにアートを投資先として選び、莫大な投資マネーが流れ込んでいるのです。

こうした現象は現代美術に限ったことではありません。

上述したようにレオナルド・ダ・ヴィンチの数十年ぶりに真作と認められた作品が、なんと十億といういくらダ・ヴィンチでも…というような値段でオークションで落札されたのですが、競り落としたのはいわゆる“アラブの王族”だったことが知られています。

(このニュースについての記事はこちらをご覧ください⇒)史上最高額の絵画!レオナルド・ダ・ヴィンチ幻の作品「サルバトール・ムンディ」

まとめ

いかがでしたか?

今回は美術品の価格がなぜそんなに高いのか?そして昨今の美術市場の価格高騰現象がなぜ起こったのか?

その始まりを探るために、管理人なりに選んだ19世紀の画家ホイッスラーの訴訟事件をご紹介しまいた。

これは画家の芸術に対する価値が変わったんだという宣言だったと管理人は考えています。

そこには時代の大きな変革とともに、画家たちの意識の変化と芸術の価値を裏付ける根拠そのものが大きな転換がありました。

「値段のない(つけられない)ものに値段をつける」という矛盾がバブルとなって、いわゆる通常の市場経済では考えられないようなとんでもない価格がアート作品に着けられているのが現在の状況だと考えられます。

 

最後に残念ながらホイッスラーの主張は裁判では通ったものの「ノクターン」の連作は一枚も売れず、裁判費用がかさんで破産してしまうという悲しい結末になったということもご紹介しておきます…(T_T)少し時代が早すぎたんですね(;^ω^)

 

]]>
https://art-whitecanvas.com/whistler/feed/ 0
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?(後編) https://art-whitecanvas.com/van_gogh_death2/ https://art-whitecanvas.com/van_gogh_death2/#respond Sat, 07 Aug 2021 12:14:54 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4559 こんにちは管理人の河内です。今回は前回に引き続き“炎の画家“ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの死の真相について解説していきたいと思います。

前回はゴッホが最期を迎える直前の行動や出来事について見てきました。

少ない資料やゴッホ本人の不可解な言動から、あらぬ噂を呼び事実は煙の中というようなお話をしました。

今回はこうした死の前後の出来事を客観的な証拠や証言などから見えてくる数々の不可解な点と、そもそもゴッホは本当に自殺をしたのか?という核心の問題について見ていきたいと思います。

ゴッホ死の真相③ 自殺説に対するいくつもの謎

 

前回でも少し触れましたが、ゴッホが銃による傷を負った後、医師による診察を受けた際すでにいくつかの不可解な点が出てきていますが、謎はそれだけにとどまらず当時のゴッホを取り巻く状況証拠や周囲の人々の証言などから数多くの謎が見えてきます。それらをまとめてみていきましょう。

ゴッホの死の謎①

ゴッホを直接診察した医師の診断の結果、銃弾は自分ではかなり撃ちにくい斜めからの角度で撃たれていたことが分かりました。

また銃弾が貫通していないことからある程度距離のある所から発砲された可能性があるというのです。(自分で引き金を引いたなら至近距離なので骨にでも当たらない限り球は貫通するはず)

そもそも自殺する気ならならば頭部や心臓を狙うはずではないのか?という疑問も残ります。

 

ゴッホの死の謎②

オーヴェール=シュル=オワーズにあるゴッホが最期を遂げたラヴーの宿。 現在もレストラン、博物館兼土産物店として残っています。

自殺ならばどうして傷を負ったまま宿に戻ったのか?

さらにゴッホは医者に腹を切開して弾を取り出してほしいと治療まで求めている。

 

ゴッホの死の謎③

ゴッホはどこで撃たれたのか?

通説では墓地近くの小麦畑で自分を撃ったとされているが、実はその場所は特定されていない。

仮に通説通りこの小麦畑だとするとラヴーの宿まではかなりの距離があり、しかも道が急勾配であること、腹部に銃弾を受けた体でしかも夕暮れの暗闇の中を歩いて帰ることは現実的に不可能。だとすれば事件現場はもっと近くの場所ということになる。

またこの小麦畑からラヴーの宿までは人通りの多い道もあり、当日は夏の暑い時期で村人たちは日没後も野外で食事や飲酒、立ち話をしていますがこの長い距離の間にゴッホを見たという証言は出ていません。

逆に宿から見て小麦畑とは反対方向にあるリュ・ブーシェの小農園に向かうゴッホを見たとの目撃証言が複数残されています。

ゴッホの死の謎④

ゴッホを撃ったピストルはおろか、持って出たはずのイーゼルや画材の入ったカバンなどはいまだに発見されていない。

 

ゴッホの死の謎⑤

そもそもお金を持っていないゴッホが銃をどこでどのようにして手に入れたのか?

小さな町でゴッホにピストルを売ったり渡したりした人物がいればすぐに特定されるはず。

 

ゴッホの死の謎⑥

実際ゴッホは「撃たれた」のか「自らを撃った」のか、 ゴッホ自身は何も語っていません。

傷を負ったゴッホの元へ駆けつけた際、弟のテオが妻に書き送った手紙でも、兄が自殺を企てたとか、自分がそれを疑っているなどといったことも一切書かれてはいません。

 

そしてゴッホの部屋から自殺をほのめかす様なもの、たとえば整理整頓がされていたとか遺書であるとかそういったものは一切残されていません。

反対に事件の数日前には、大量の絵の具や画材の注文をしており、事件当日もいつも通り午前中は制作に出かけ普通に昼食まで取っているのです。

 

以上のことから、そもそもゴッホが自らの腹をピストルで撃ちぬいたこと自体が事実ではなくほかの第三者が撃った事件の可能性を考える方が自然とさえ思えてきます。

 

 

ゴッホ死の真相④ 映画「炎の人ゴッホ」が決定付けたゴッホ神話のイメージ


ゴッホの死後40年以上たってからアーヴィング・ストーンという人が著した「炎の人ゴッホ」がベストセラーとなります(1934年)

これによってゴッホの名は一躍世に出ることとなり同時に今でも多くの人が持つゴッホのイメージが形作られます。

そしてその20年後の1953年、ゴッホ生誕100周年でゴッホの名声はゆるぎないものとなります。

さらにその3年後に公開された映画「炎の人ゴッホ」がアカデミー賞を受賞したことでゴッホ神話は決定的となりました。

映画の中で描かれるゴッホの貧しい生活、精神的な病、芸術的苦悩や孤独、こうした悲劇的人生を経て決行された麦畑でのピストルによる最後は、“物語”としては非常に強烈なイメージとして世界中の人々に刻まれたはずです。

こうして“神話”が“事実”となっていったのではないでしょうか。

ゴッホ死の真相⑤ 最重要人物ルネ・スクレタンとは?

ここでこれまで見てきた謎を解くキーマンとしてルネ・スクレタンという人物をご紹介しましょう。

このルネはパリ郊外で育った裕福な薬剤師の息子で、ゴッホと知り合った当時16歳でした。

彼はいわゆる“いいとこのボンボン”で札付きの不良少年として知られていました。

 

このルネとその兄ガストンは毎年夏に避暑としてこのオーヴェールに滞在していたのです。

彼は仲間を引き連れては釣りや狩りをしたり、時にはパリのムーランルージュから女性たちを呼んで舟遊びなどをしていたようです。

そんな勝手気ままな青春時代を謳歌した彼は、成人してからは銀行家、実業家として成功し射撃のチャンピオンになるなど輝かしい経歴を持つ成功者となっています。

ルネ・スクレタンが1956年82歳の時に映画「炎の人ゴッホ」が公開されました。

しかしその内容があまりにも事実とかけ離れているということで、当時つまり1890年の夏のオーヴェールのことをルネが語っているのです。

 

その内容はこうです。

その年もルネたちはオーヴェールで夏を過ごしていました。

ルネの兄ガストンは、弟とは正反対の性格で芸術や音楽を愛する繊細な少年でした。

そのガストンが実はゴッホと絵について語り合うなど親しくしていたのです。

そしてルネはその兄を介してゴッホを知ったようです。

 

“悪ガキ”のルネはこの少し変わり者として知られていた画家をわざと怒らせようとからかったり、かなりひどい悪戯したりしては笑いものにしていました。

 

そんな中ルネは前年にパリで開かれた万博でアメリカ西部開拓の“ヒーロー”バッファロー・ビルの《大西部ショー》を見た際に買ったカウボーイの衣装を身に着けて38口径のピストルを持ち歩いて「西部劇ごっこ」を楽しんでいたというのです。

バッファロー・ビル

と、ここまで見てくるといかがでしょうか?

このルネ・スクレタンという男からなにやら怪しい要素がいろいろ出てきました。

彼の人となりや当時の行動をゴッホの死にまつわる数々の不可解な点と照らし合わせてみると、まるでパズルのピースがピタッと合うようつじつまの合う仮説が見えてくるのです。

それを次に見ていきたいと思います。

ゴッホ死の真相⑥ 仮説:真犯人ルネ・スクレタン?

オーヴェールの小麦畑

ではその仮説とはいったいどういうものでしょうか。

前述のようにゴッホが傷を負った場所も時間も正確には分かっていません。

仮に現場が通説となっている小麦畑ではなく、複数のゴッホ目撃証言があるリュ・ブーシェの小農園であったとしてみましょう。

ゴッホが定宿にしていたラヴーの宿からこの農園に通じるシャポンバルの途中には、ルネらがいつも屯する酒場や釣り場がありました。

 

その途上のどこかあるいは酒場でゴッホとルネが偶然出会うということはあり得ることです。

そこで何かしらのトラブル、例えばいつものようにルネがゴッホをからかい、それにゴッホが腹を立てたり小競り合いになったとか、あるいはお互い酒場で酒を飲んで酔った末にちょっとしたいざこざが起こったかもしれません。

 

そこで不良少年たちが激高したゴッホを恐れて、あるいは冗談でルネが所持していたピストルを発砲したとしたら…。

その弾がゴッホの腹に命中したのだとしたら?

負傷したゴッホは画材道具一式を置いてラヴーの宿へと逃げ帰ったのではないでしょうか?

そして少年たちはこの出来事(故意が偶然かは別として)に慌ててゴッホの画材やピストルを隠して逃げたのではないか?

 

ゴッホが負傷した1890年7月27日の夕暮れの出来事をこうしてとらえてみると諸々の矛盾が解決するのです。

 

負傷したゴッホが画材道具を誰にも見つからないよう処分することは不可能ですが、彼を撃った犯人ならば証拠隠滅を図ろうとしたと考えることができます。

 

さらに現場がラヴーの宿から見てちょうど真逆の方向にあるため、定説となっている“自殺現場”である小麦畑と宿を結ぶ道中でゴッホを誰も見ていないことを裏付けますし小麦畑を捜索してもピストルやゴッホの所持品など見つかるはずはありません。

 

またガシェ医師らが診断したように、ゴッホの傷の不可解な点も説明できます。

 

しかしルネ自身はこのゴッホの銃撃事件について、ゴッホが彼のピストルをこっそり盗んだとか、ゴッホの死はパリに帰ってから新聞で知ったなどと曖昧な供述をしているのですが…

 

以上はあくまでも推測ですが現時点で考えられるゴッホの死の真相の最も有力な仮説と考えられます。皆さんはどうお感じになるでしょうか?

 

実際アメリカの学者であり美術史家(特に印象派・ポスト印象派の権威)であるジョン・リウォルドが1930年実際にオーヴェールを訪ね、事件当時そこに住んでいた町の人たちから直接取材した結論としてほぼこの仮説と同じ内容で「若い少年たちが誤ってフィンセントを撃った」「彼らは殺人罪の問われることを恐れて名乗り出ず、ゴッホは彼らを守って殉教者となることを決意した」と語っています。

ゴッホ死の真相⑦ ゴッホは自殺を望んでいたのか?

 

実はゴッホ自身自殺を望んでいた節があることも事実です。

生前テオにあてた手紙の中で「もし僕がぽっくり死ぬとしたら―たとえそんなことになるとしても僕は避けるつもりはない。無論、わざわざそんなことを求める気もないが」という意味深なことを書いています。

しかし実際にそれまでゴッホがもっと病状が深刻で辛い状況にあった時でさえ、自殺しなかったのはゴッホが自殺は「不正直な人間のやること」と考え手紙などで書いていますし「邪(よこし)」であり「恐ろしいこと」であり「僕は絶対そういう傾向の人間ではない」と日ごろから言っていました。

 

ゴッホが最後まで自分で撃ったのか、他者に撃たれたのかを曖昧にしていたのは単に少年たちを守る気持ちからとも考えられますが、こうしたゴッホの中で相矛盾する「自死」への渇望と嫌悪が事故であれ不注意であれ実行されてしまったことが、ある意味「願ったりかなったり」だったためかもしれません。

 

 

ゴッホ死の真相 まとめ

1890年当時のラヴーの宿。

いかがでしたか?

2回にわたって見てきました“ゴッホの死”についてここまでお読みいただいた皆さんはどのように感じられたでしょうか?

今となっては真実は闇の中であることに変わりはありませんが、通説であるゴッホの自殺説にはあまりにも多くの謎や不可解な点があることはお分かりいただけたと思います。

 

ゴッホのあまりにも情熱的な作品、激しい性格や波乱の人生を考えると、その結末を小麦畑でのピストル自殺というかたちでで完結させることは物語としては興味深く、それゆえ私たちもすんなり受け入れやすいといえるかもしれません。

 

しかし実際のゴッホは本当はどう思っていたのでしょうか?

考えても答えが出るわけではありませんが、次回改めてゴッホの絵の前に立った時自分なりの答えを探すのも面白いかも知れませんね。

 

【ゴッホに関するその他のおすすめ記事】

・『情熱の画家」ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作風と生涯をご紹介します!

・『いかにして魂の画家は生まれたか?』ゴッホの生涯を詳しく解説!

ゴッホの代表作を解説付きで紹介~ゴッホ作品解説

知っているようで知らない?ゴッホにまつわるエピソード  

【ゴッホの弟】テオをご紹介します。

・ゴッホの死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?

]]>
https://art-whitecanvas.com/van_gogh_death2/feed/ 0
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?(前編) https://art-whitecanvas.com/van_gogh_death/ https://art-whitecanvas.com/van_gogh_death/#respond Sat, 26 Jun 2021 23:11:53 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4550 こんにちは。管理人の河内です。

今回は誰もが知っている超人気画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの“死”の真相について取り上げてみたいと思います。

皆さんゴッホと聞いてどのようなイメージをお持ちでしょうか?

誰もが思い浮かぶのが「炎の人」という形容詞がつけられるほどの激しい気性の持ち主で、その性格から人付き合いは苦手、生前は絵がほとんど売れず極貧の中でいわゆる「耳切り事件」や精神病院への入退院を繰り返すなど精神に病を負った末、最後は絶望の淵で自ら命を絶ったという悲しい結末のストーリー。

それほど美術に詳しくない方でも大方の人が持っているゴッホのイメージはこのようなものではないでしょうか?

 

しかしこうしたストーリーの中には、後世の人たちによって演出ともいえる枝葉が付けられ、あるいは誇張されたフィクションが混ざっていることはあまり知られていません。

 

特に今回取り上げるゴッホの最期、「死」についての真相は当時の資料や周りの人々の証言などからそうしたイメージとは全く違うストーリーであったことがわかっています。

 

では実際ゴッホはどのようにして最期を迎えたのでしょうか?

現在分かっている資料を基にその真相に迫ってみたいと思います。

 

 

 

ゴッホの死の真相① 1890年7月27日

実はゴッホの死の直前の行動については詳しいことはほとんど分かっていません。

数少ない確実な資料をもとに言えることはおおよそ次のことぐらいです。

 

1890年7月27日。

パリの北20マイルほどのところにある街オーヴェール・シュル・オワーズに滞在していたゴッホは、

逗留していた宿で昼食をとった後、午後の制作をすべく画材をもって出かけました。

そしてその後のどこかの時点で銃による傷を負います。

傷を負ったゴッホはラヴ―(定宿の主人)の宿に歩いて戻り、その30時間後に息を引き取りました。

 

そして宿に戻って亡くなるまでの間に、ゴッホは二人の医師による診察を受けています。

その診断の結果、弾丸は体内に留まったままであり、脊柱付近に滞留しているということ、

傷を負わせた銃は小口径のピストルであることが分かっています。

 

そしてこの時診断した医師によっていくつかの不可思議な点が指摘されています。

それは弾丸が異常な方向、つまり自分で自分を撃ったのにはかなり無理な角度から侵入しているということ、そしてある程度距離の離れたところから発射されている(至近距離ではない)ということです。

これらの疑問点については後半でさらに詳しく述べたいと思います。

 

翌日、ゴッホは警察による短い聞き取り調査が行われていますが、事件当時ゴッホがどこにいたのかは不明のままであり、その凶器となった銃やゴッホが持って出たはずの画材道具はどうなったのかわからずじまい、傷を負わせたのも実際本人なのか他人なのかも名言はしませんでした。

 

 

ゴッホ死の真相② 事件前後の出来事(一部推測も含まれる)

では当時周囲にいた人物やそのほかの記録からもう少し丁寧に見ていきましょう。

ただここからの話は確証のあるものだけでなく、うわさや推測も混じっているか可能性があります。

 

ゴッホはこの最後の数週間、毎日のように宿にしていたラヴ―の店から数ブロック離れたところにあるドービニーの庭に出かけて絵を描いていました。(ドービ二―はゴッホが尊敬していた画家。ドービニーの庭はこの画家の邸宅の庭のこと)

ゴッホが描いた『ドービニの庭』

7月27日ゴッホはいつものように朝から道具箱やイーゼル、キャンバスなど一式を携えてスケッチに出た後、お昼にはラヴーの宿で昼食を取りに戻りまた仕事に戻りました。

 

しかしその日の日没後、ラブーの宿に戻ったときはカバンもイーゼルも持っておらず手ぶらで、足を引きずって帰ってきたのです。

ゴッホは店の外のテラスでたむろしていた幾人かの客たちやラヴーには一言もかけず、真っすぐ自室の屋根裏部屋に向かいました。

 

不審に思った彼らはゴッホの後を追って部屋の扉にそっとに耳をそばだたせると、中からうめき声が聞こえてきます。

心配になった主人のラヴーが部屋の中に入ると、ゴッホはベッドの上で苦痛に身もだえしていたのです。

ラヴ―に気づいたゴッホは自分のシャツをたくしあげ、腹に開いた小さな穴を見せてこう言いました。

「僕は畑で自分を傷つけた。そこでリヴォルバーで自分を撃った」と。

 

すぐに医者が呼ばれました。

その医師はたまたまバカンスでオーヴェールに滞在してた産婦人科医のマゼりという医師でした。

彼の診断によれば弾丸は貫通しておらず腹腔の奥で肺に穴を開けて動脈を掠め、脊髄近くにとどまっているというもので致命傷と見られました。

 

しかしここで前述のいくつかの奇妙な点が浮かびあがってきます。

 

もしゴッホが自殺を図ったのなら頭部、もしくは心臓を狙うはずですが、被弾した個所は心臓から遠く離れています。

さらに銃口は下を向き自分で撃ったのなら骨に当たらない限り弾は貫通するはずです。

これは「余りにも非常に遠くから」撃たれたことを示していました。

 

その後、オーヴェールでのゴッホの保護者的関係にあったガシェ医師が到着します。

ガシェ医師

その時ゴッホは何とベッドの上でパイプをふかしていました。

そして「誰か僕のために腹を切開してくれませんか?」と願い出ます。

しかしマゼりは産科の医師でガシェは栄養学と神経症の医師であったため、ふたりとも専門外ということでこの申し出を拒みました。

 

ガシェ医師はなすすべもなく包帯を巻いただけで、後はパリにいるゴッホの弟テオに向けて事情を説明した手紙を書き、翌日若いオランダ人画家ヒルシップに依頼してテオに届けさせました。

 

翌朝にはオーヴェールの町はこの事件の噂でもちきりです。

ここで噂が噂を呼び真偽不明の脚色がされていったようです。

 

翌日警察がゴッホに事情聴取にやってきました。

そこで警官はこう尋ねました。「自殺したかったのかね?」

これに対しゴッホは「はい、そう思います」と答えています。

すると警察は「自殺は罪だよ」と言いました。

やはりゴッホは自殺を図ったのでしょうか?

ゴッホは苦痛で意識が混濁するなか「自分一人でやった」と答える一方で「誰も責めないでください」と奇妙なことも言っています。

 

翌28日の正午、テオは知らせを受けて血相を変えて兄のもとに駆け付けます。

ラヴ―の宿についたときにはテオは最悪の事態を予想しその顔は「悲しみで歪んでいた」と宿の主人の娘は証言しています。

 

しかし実際兄と対面してみると思いのほか元気であり、テオが見た部屋はまるで自殺を試みた人間の部屋ではなく、まさに通常通りの様子でゴッホはベッドの上で起きてパイプを吸っていました。

 

「彼は期待していたより多少良かった」が「しかし実際には病状は非常に悪い」と妻への手紙で書いています。

 

二人は抱き合い、ゴッホは弟がつきっきりでいてくれたこと感謝しました。

その夜遅くまで二人で語り合いました。

おそらくこの時テオもまたみなと同じように事件について本人に聞いたはずです。つまり本当に『自殺を図ったのか?』と。しかしゴッホは何も答えなかったといわれています。

しかし妻のヨーへの手紙でテオは「詳しいことは書かない。あまりにも悲しいことだ。」と書いているところを見ると何かを打ち明けられたのかも知れません。

 

日が沈むにつれゴッホが使っていた屋根裏部屋は冷え始めました。

ゴッホの呼吸も次第に粗くなり夜中の0時半ごろにはゴッホは弟の腕に抱かれ苦しい呼吸にあえぎながら「このまま死んでいけたらいいのだが」とテオにいいます。

 

そして午前一時を回ったころゴッホは目を大きく開いたままその心臓は鼓動を止めました。

ガシェ医師による死の床のゴッホのスケッチ

ガシェ医師による死の床のゴッホのスケッチ

翌朝テオは悲しみを堪え葬儀の準備や案内状の印刷発送などを一気にこなします。

しかし地元の教会で葬儀を上げることはゴッホが異国人のプロテスタントであったことや自殺の疑いがあったことなどから拒否されてしまいます。

そのためテオは街の上の荒れ果てた剥き出しの土地にある墓地の区画を買い埋葬しなければなりませんでした。

翌7月30日葬儀にはパリから画材屋のタンギーやカミーユ・ピサロの息子(ピサロは老齢と病気で欠席)、エミール・ベルナールなどが駆け付け、ガシェ医師らの計らいで町の人々が参列しましたがゴッホの家族はテオのみでした。

これがゴッホが亡くなる前後に起こった経過です。

 

こうして炎の画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホンの37年という短い人生に幕が下りたわけですが、先にも触れたように一般的に言われているようにゴッホは本当に狂気の末に自殺を図ったのでしょうか?

“自殺”とするにはあまりにも不可解な点が多い彼の死,次回の「後編」ではその不信な点と様々な外的証言や事実を検証しその真相を探ってみたいと思います。

ゴッホと弟テオは並んで埋葬されています。

後半に続く・・・

 

【ゴッホに関するその他のおすすめ記事】

・『情熱の画家」ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作風と生涯をご紹介します!

・『いかにして魂の画家は生まれたか?』ゴッホの生涯を詳しく解説!

ゴッホの代表作を解説付きで紹介~ゴッホ作品解説

知っているようで知らない?ゴッホにまつわるエピソード  

【ゴッホの弟】テオをご紹介します。

]]>
https://art-whitecanvas.com/van_gogh_death/feed/ 0
ピカソ『青の時代』とは何だったのか? https://art-whitecanvas.com/periodo-azul/ https://art-whitecanvas.com/periodo-azul/#respond Tue, 25 May 2021 13:03:41 +0000 https://art-whitecanvas.com/?p=4532 こんにちは。管理人の河内です。

今回は20世紀最大の芸術家パブロ・ピカソ、彼の最初期の芸術スタイルである「青の時代」を取り上げてみたいと思います。

「ピカソの名前は有名だし絵も見たことあるけど、何が描いているのかわからない」などという意見はよく聞きます。

しかし実際に一般の方に分かりづらい作品とは、いわゆる「キュビズム」以降の作品で今回ご紹介する「青の時代」の作品は割とどなたでもすんなり入ってくるのではないでしょうか?

それを言い換えるならばピカソがピカソのなる前の時代、または始まりの時代、それが「青の時代」と言ってもいいかもしれません。

今回はそんなある意味“ピカソらしくない“「青の時代」に描かれた代表作をいくつか取り上げながら解説してみたいと思います。

 

ピカソ「青の時代」① 青の時代とは?

ピカソはその長い芸術家人生の中において、常にスタイルを変え続けた稀有な画家でした。そしてそれこそがピカソにピカソたるゆえんといっても過言ではありません。

そしてその最初のスタイルこそが「青の時代」なのです。

ではその「青の時代」とはいつ頃をさすのでしょうか?

それは一般的には1901年から1904年頃をさし、ピカソが19歳から23歳ごろまでパリと故国スペインバルセロナを行き来していた時代にあたります。

これは後で述べる友人との悲劇の体験がその発端となったということはピカソ自身が述べています。

この時期全般を通して制作された作品は、まさに「青の世界」ブルーの色調で覆われています。

その画面には若者が持つエネルギーや明るさとは正反対の(これもまた若さの証明だと思いますが)孤独や絶望、病や貧困、死といった負の感情が支配し、それらを当時の老人や女性、盲人、乞食といった虐げられ社会底辺で生きる人たちをモチーフに描きました。

 

ピカソ「青の時代」② 青の時代の始まり

ピカソは若くして故郷のスペインではある程度画家として認められるようになっていました。そして19歳の時に友人のカサへマスとともにパリに出るのですが、そのカサへマスこそがピカソを青の時代へと導くきっかけとなりました。

当時のパリは前衛芸術の中心地でありヨーロッパ中から若い芸術家が集まってきていました。

そんな刺激的な街で若い二人は絵の勉強や制作に励みますが、ある時カサヘマスが絵のモデルをしていたジェルメールという女性に恋をしてしまいます。

しかし彼女はすでに人妻であったうえに数多くの恋人を持つ奔放な性格の女性でした。

 

内気な性格のカサヘマスは、そのことで思い悩み憔悴していきます。

それを見かねたピカソはいったん彼を故郷に連れ戻しますが、彼女が忘れられないカサヘマスはパリに舞い戻ってしまいます。

 

ピカソのいないパリで、カサへマスは友人たちを集めてとあるカフェでパーティーを催します。

もちろんそこにはジェルメールも招待されていました。

カサへマスはそこでジェルメールに思いのたけを伝えます。

しかしジェルメールはもちろんその申し出を断ったのですが・・・

 

なんとカサヘマスは突如ピストル取り出しジェルメールを撃ったのです。

さらにその銃口を自らのこめかみに向けて引き金を引きました。

幸いジェルメールはかすり傷を負った程度で済んだもののカサヘマスは20歳という若さで亡くなってしまいます。

「カサへマスの死」1901年

これがまさにピカソの青の時代の始まりでした。

親友をこのような形で失った悲しみや彼の思いを知りながらこの結末を防げなかった自責の念でピカソ自身打ちのめされてしまったのです。

この事件によってピカソはうつ病となりその人生観までも変わってしまいました。

そしてピカソの視線はパリの華やかな面ではなく暗い影の部分に向けられるようになっていきます。

絵のモチーフもそれまで描いていた華やかで刺激的なパリとそこで生きる人々ではなく憂鬱や貧困、孤独、絶望、病、死といった人生の負の側面に向けられ、それらを背負い虐げられた人々をブルーの色調に支配された世界で表現するようになったのです。

 

 

ピカソ「青の時代」③「サバルテスの肖像」

ではここでいくつか青の時代の代表作を見てみましょう。

1901年制作 油彩 キャンバス 81×65cmモスクワ プーシキン美術館蔵

この絵のモデルであるハイメ・サバルテスは、後にピカソの評伝やカタログなどの文献を記したピカソの友人です。

青年ピカソがまだパリに出る前、バルセロナのカフェでたむろしていたころからの知り合いでピカソがパリに出ると、このサバルテスもピカソの後を追ってパリに出ました。

この肖像画はそのころに描かれたもので、サバルテスはこの絵を「青い鏡の中に新たな地平線がかすかに光出したピカソの芸術の新たな局面を見ているようだ」と書いています。

 

こうした記述からは当時哀しみの縁にあったピカソの感情は、実はピカソの個人的な心情にとどまらず世紀末の暗澹たる空気を彼ら若い世代が共有していたものともとらえることが出来ます。

ピカソ「青の時代」④ 「生」

1903年 キャンバスに油彩 196.5×129.2㎝ クリーヴランド美術館蔵

ピカソはこの年の一月パリから帰国しこの作品をバルセロナで仕上げました。

彼は当時バルセロナの町や貧しい男女たちの抱擁などをテーマとして描いていましたが、この時期に「青の時代」は最も深まりを見せ、この作品はその象徴であり完成形ともいわれている大作です。

ここに登場する男性の顔を、ピカソは初め自分の顔を描きました。

しかしその後、彼は死んだ親友カサヘマスの顔へ描き直しています。

そして男性にしなだれている女性はおそらくカサへマスの恋したジェルメールだろうと推測されています。

 

また男性のポーズはイエスキリストが復活した際、マグダラのマリアにある有名なセリフ「私に触れるな」を言うときのポーズでもあるのです。

コレッジョ作『ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)』1525年頃 スペイン・プラド美術館蔵

そして右手には赤ん坊を抱いた母親、これも聖母子を思わせキリスト教的な解釈もできそうですが、生まれるはずのないカサへマスとジェルメールの子供ではないかと唱える説もあります。

カサへマスは性的に不能だったとも言われていて、実らない恋であることと重ね合わせれば二重の意味で幻想の子どもであるとみることもできます。

 

そして彼ら三人は同じ空間にいるようで誰も視線を合わせずうつろでお互いの存在に気づいていないのではないかと思えるほどです。

画面中央奥には悲しげに抱き合う二人の人物と膝を抱える女性が描かれていますが、こちらも空間的にも不安定で様々な解釈があり作品全体を通して不穏で陰鬱な世界が表現されています。

ピカソ「青の時代」⑤ 最新の研究から見えてきたもの

神奈川県箱根にあるポーラ美術館が所蔵する「海辺の母子像」

ピカソが20歳の時に描いた作品「海辺の母子像」。

じつはこの絵の下にはスプーンが入ったお酒のグラスと二人の女性の絵が描かれていたことが90年代に行われたX線撮影によって分かっています。

さらに近年NASAが惑星の地質調査をするために開発した技術を応用した「ハイパースペクトル・イメージング」という技術を使った研究では、そのさらに下層には何と新聞紙が貼られていたことが分かりました。

 

また「悲劇(海辺の貧しい家族)」の下からは死にかけた馬が、さらにその下からは闘牛の絵が描かれていたことがわかっています。

こうしたことからピカソが当時経済的に非常に困窮していたことがわかります。

管理人も経験がありますが、新しいキャンバスを買うのにさえ窮していたピカソは同じキャンバスに何度も絵を上書きしていたのです。

 

実はこの頃ピカソは友人で詩人のマックス・ジャコブと一緒に暮らしており、一つのベッドを二人で交代で使っていたり、暖を取るためにピカソ自身の絵を燃やしたりしていたほどでした。

その困窮の理由は「青の時代」特有の暗く陰鬱な絵にはなかなか買い手がつかず絵が売れなかったことにあったようです。

 

このように実は「青の時代」の背景には、友人の死という精神的苦悩とこうした経済的苦境という不安定な要素さらには世紀末という時代の享楽的退廃的な空気などが複合して生まれたと見ることができるのではないでしょうか。

 

ピカソ「青の時代」まとめ

いかがでしたか?

一般的に「青の時代」は、数あるピカソの時代の中でその発端であり、その契機となった親友カサヘマスの自死と、それによる哀しみそしてそれを止めることができなかった自責の念がピカソを突き落としたことから始まったといわれています。

 

しかし実はそれだけでなく当時のピカソが経済的にも非常に苦しい時期でもあり、またパリに漂う世紀末の享楽的退廃ムード、時代の重苦しい空気の下で病や貧困、孤独、絶望にあえぐ人々がいました。

こうした状況を青年ピカソは鋭敏に感じ取り、不安定で悲しさをまとった「青の時代」が生まれたといえるのではないでしょうか。

管理人自身この記事を書くに当たって改めてそう感じました。

 

その後、ピカソはフェルナンド・オリビエという恋人を得て精神的安定を取り戻し、続くバラ色の時代でピカソの名声は一気に上がっていくことになるのですがそれはまた別の機会に取り上げたいと思います。

 

【その他ピカソに関するお勧め記事】

こちらも合わせてご覧ください。

・「20世紀の巨人」パブロ・ピカソの生涯を詳しく解説します。

・美術の革命!ピカソの代表作を解説付でご紹介します!

・天才ピカソにまつわる様々なエピソードをご紹介します。

・想像と破壊!ピカソの画風とその変遷を追う! 

・代表作『ゲルニカ』を徹底解説!ゲルニカはなぜ白黒なのか?

]]>
https://art-whitecanvas.com/periodo-azul/feed/ 0