こんにちは。管理人の河内です。
今回は20世紀前半のパリで活躍したエコール・ド・パリ(パリ派)の画家モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)を取り上げてみたいと思います。
ユトリロはパリの裏通りや教会、モンマルトルの丘などを描いた風景画で知られる画家です。
白い壁が印象的で日本でも人気の画家ですね。
実はこのユトリロは生前からあのピカソよりも売れた画家なんです。
ということは20世紀前半で最も作品が売れた画家ということなんです!
そんなユトリロですが実生活では私生児として生まれ、恵まれない幼少期を過ごし生涯アルコール依存症に苦しみました。その上、家族からは軟禁され自分の描いた絵の売り上げを搾取され続けた悲劇的な人生を送ったということはあまり知られていません。
ピカソをもしのぐ成功を収めたはずの売れっ子画家とはいったい人だったのでしょうか?ご紹介したいと思います。
目次
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)は20世紀前半のパリに集った若い画家たちのコミューン「エコール・ド・パリ」の画家です。
「エコール・ド・パリ」と言えば当時モンマルトルの丘にヨーロッパ各地から集まったボヘミアン的な若手画家たちを一括りにして使う名称ですが、その中でもユトリロは唯一人生粋のフランス人でした。
ユトリロは、パリの街それも古びた小路や教会、薄汚れた街並み、運河などいわゆる華やかな“芸術の都”ではない裏通りのパリ、身近な日常のパリを描きました。
その作風は静謐でどこか憂鬱で寂しげな印象が特徴です。
特にユトリロの描く壁の白は独特で「白の時代」と呼ばれる時期の作品群は生前から高い評価を受けています。
ユトリロの作品は世界恐慌下でも売れ続け、経済的に成功をおさめピカソやブラマンクら同時代の画家たちからも高い評価を受けていました。
そんな画家としての成功の反面、私生活では恋多き女性として知られるモデルで画家のシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれました。
母ヴァラドンは、仕事や恋愛に忙しくユトリロは育児放棄された状態であったため祖母に育てられます。
体は弱く内向的な性格で10代のころより酒を飲み生涯アルコール依存症に苦しめられました。
成人して売れっ子画家になってからも酒を飲んでは暴れたり警察沙汰を起こしては精神病院や療養院への入退院を繰り返します。
そのため実の母や継父、晩年は妻にまでアトリエに軟禁され制作をさせられる囚人のような生活を送ります。
さらに酷いことに彼らはユトリロの絵を売って儲けた金でぜいたくな暮らしをしてはユトリロのことを「貨幣鋳造機」とよんで搾取し続けたのです。
こうした私生活の悲劇性と、歴史に名を残すほど画家としての成功という光と影の二面性こそが哀愁漂うユトリロ作品の背後にあったのかもしれません。
ユトリロは、伝統的な美術教育も受けず新しい芸術運動に参加することもなく、生涯自分の詩情の赴くまま日常の風景を描き続けた孤独な画家だったのです。
モーリス・ユトリロは1883年パリのモンマルトルの丘近くで、画家でモデルでもあったシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれました。
7歳の時、スペイン人の画家で美術評論家ミゲル・ユトリロに認知されて「モーリス・ユトリロ」と改姓しました。
幼少期は祖母に育てられますが、孤独と精神不安から10代で酒を覚え18歳ですでにアルコール依存症で入院します。
一時母が資産家と結婚したことで生活は安定しますが、すでにアルコール依存が進み学校中退、職を転々とします。
入院中に医者の勧めで治療の一環として絵をかき始める。
退院後も絵を描き続け少しずつ絵が売れるようになりますが、その稼いだお金はすべて酒代に消えていきます。
1908年頃からは絵ハガキをもとに風景画を描くようになり「白の時代」が始まります。
この頃から作品が評価され始め画商と契約し、経済的には安定しますが、依然酒はやめられず入退院を繰り返します。
09年にはサロン・ドートンヌへ出品。
フランス政府からレジオンドヌール勲章やパリ名誉市民賞などを受賞。
52歳でリュシー・ポーウェルズと結婚、パリ郊外のル・ヴェジネに移り住む。
長年アルコールに侵され続けていたにも関わらず71歳という長寿で亡くなりました。
ユトリロの生涯について詳しい記事はこちらをご覧ください⇒ 『エコール・ド・パリ』“天才画家の光と影”モーリス・ユトリロの生涯を詳しくご紹介します!
ではここでユトリロの代表作をご紹介します。
(詳しい解説付きの記事はまた後日アップいたします)
『モンマニ―の屋根』
『ドゥイユの教会』
『モン=スニ街』
『サン=セヴラン聖堂』
『パリの街路』
『サン=ピエール聖堂とサクレクール』
『コタンの袋小路』
『哲学者の塔』
『休日の広場』
ユトリロはこれまでご紹介してきたような巨匠たちとは違い、そもそもの絵を描き始めた目的がアルコール依存症の治療の一環からでした。
また初めに手ほどきを与えた母のヴァラドン自身もルノワールやドガなどの影響を受けたとは言え正規の美術教育や修業をしたわけではなく、それほど熱心に息子に教えていたわけでもありませんでした。
ユトリロ自身、若い頃にピサロやシスレーら印象派の影響を受けましたが、基本的には独学で独自の表現を創り上げていきました。
それがある意味ユトリロの絵に唯一無二の素朴でぎこちない雰囲気を与えたとも言えます。
ユトリロの描く絵はほとんどが風景画です。
始めは戸外に出てイーゼルを立てて描いていましたが、後にパリの街の写真が写った絵ハガキを見て描くようになります。
(ユトリロの作品はいわゆる陰影に乏しく、遠近感(パース)が強かったり輪郭線が強調されているのは当時の白黒写真を見て描いた影響もあるのではないかと管理人は感じています)
画家として成功をおさめたいわゆる「白の時代」の作品では、彼が生活したモンマルトルの街、そこにたちならぶ建物の漆喰の白、これこそがユトリロ芸術の代名詞でもあります。
また人物がいない、または小さく描かれたモンマルトルの街はいわゆる華やかな芸術家の集まる街ではなくどこかうら寂しい重く悲しげな空気が漂っています。
その後1915年前後からは「色彩の時代」へと移行します。
それまでの白を基調とした画面に様々な色が現れ線を強調しはじめます。
また白の時代ではほとんど描かれなかった人物、特に女性を風景の中に描きはじめたことも大きな変化でした。
残念ながらユトリロ芸術は「白の時代」をピークに晩年は若いころの焼き直し的な作品が多くなっていきます。
『20世紀悲劇の画家』モーリス・ユトリロについて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか?
初めにユトリロをエコール・ド・パリの画家とご紹介しましたが、実はこれは議論の分かれるところです。
なぜなら彼はモンマルトルの住人でもなく異邦人でもありません。
『エコール・ド・パリ』の中で唯一のパリっ子であり、他の画家仲間と新しい芸術論を戦わすなどということもなくただひたすらに酒と絵筆だけを取り続けた孤独な画家だったからです。
今回このブログを書くに当たって新ためてユトリロを調べて、管理人はこのユトリロの悲しい人生を知って改めて彼の作品に通底する寂しさや憂鬱感の正体を知った気がしました。
「才能はあるが破天荒」「酒浸りだが名画を描く」といったような私たちがよくイメージしがちな“破滅型の芸術家”のプロトタイプがユトリロ(他にはモディリアーニも)にあったのかもしれないと思いました。
彼のさらに詳しい人生の詳細については『ユトリロの生涯~詳しく~』をご一読ください。
ご紹介しましたようにユトリロは世界で最も売れた画家であったため、作品数も多く日本でも人気が高いので国内でもいろんな美術館やギャラリーが作品を所蔵しています。
ご興味のある方はぜひ足を運んで生のユトリロに触れてみてはいかがでしょうか?
(関東では東京都町田市にある西山美術館や神奈川県箱根町にあるポーラ美術館が多くのユトリロ作品を所蔵されています。
西山美術館ホームページ https://www.2480.jp/
ポーラ美術館ホームページ https://www.polamuseum.or.jp/