こんにちは。管理人の河内です。
今回は19世紀末から20世紀初めにオーストリアのウィーンで活躍した画家グスタフ・クリムトの生涯を年代を追ってご紹介したいと思います。
クリムトが生まれたころのウィーンは、ヨーロッパ随一を誇ったオーストリア帝国の凋落と混乱の時期でしたが、文化面では史上まれにみる爛熟した時代でもありました。
グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、ウィーン郊外のバウムガルテンで7人兄弟の第2子として生まれました。
父エルンスト・クリムトはボヘミアの農家出身の彫刻師でした。母アンはウィーン出身。
ウィーンで小学校、高等小学校で8年間学んだあと、14歳で王立オーストリア芸術産業博物館付属工芸学校に入学しました。
ここで工芸品の装飾や模写、石膏デッサンのほか遠近法や様式論など幅広く美術工芸の勉強をしました。
またクリムトの2人の弟たちも同様に工芸学校で教育を受けています。
後に二人は彫刻師、彫金師となりクリムトの作品のために多くの額縁を設計しています。
クリムトは早熟な画家で、17歳にして皇帝フランツ・ヨーゼフの銀婚式の祝祭行列の計画にも参加しています。
学校を卒業後、1883年にクリムトは兄弟と友人フランツ・マッチュと工房『芸術家商会』を設立して活動を始めました。
活動を始めてすぐにウィーンや郊外の邸宅の装飾など仕事をいくつも引き受けます。
1886年、新築されたウィーン・ブルク劇場の天井と階段室の装飾という名誉ある仕事を引き受けます。この仕事を見事に成功させクリムトは金十字功労勲章を受けます。
1891年ウィーン美術家組合に加盟。
1890~92年にはウィーンの新しい美術史美術館の階段室の装飾画を手掛けるなど若くして成功を手に入れます。
35歳にしてウィーン一流の装飾画家ハンス・マカルトの後継者として評価される。
1892年、この年に父と弟エルンストが死去。それに伴い工房を解散。
1894年 大論争の末、ウィーン大学の天井画の依頼を受ける。三つの学部を表現する「哲学」「医学」「法学」のパネルを制作しますが、「裸婦」を中心とした露骨な性的表現が大学関係者からは場にそぐわないと評価されませんでした。
新聞でもこれらは「ポルノグラフィー」であり、学生に悪影響がでると非難され議論を呼んだ末、クリムトは1905年に検閲への抗議と芸術の自由を宣言して計画を放棄し、報酬を全額返還しました。
このスキャンダル後、クリムトは公の依頼を受けることはなくなりましたが、反対に彼の作品に関心を示す多くのパトロンを得ることになりました。
そして富裕な資本家や貴婦人たちから肖像画の依頼が殺到します。
1897年 保守的な美術家組合を嫌った若い芸術家らと共に、ウィーン分離派を創設しクリムトはその初代会長となります。
↓分離派のメンバーたち。
1898年第一回分離派展開催。
1900年 ウィーン大学天井画をめぐって議論が巻き起こる。
この頃は夏にアッター湖畔に滞在。
1902年マックス・クリンガー作ベートヴェン像を中心に、べートーベンを賞賛するために14回分離派展が企画された。
1905年 ウィーン大学のための制作を放棄する。
分離派を離れ翌年オーストリア芸術家連盟を創設。
1907年ウィーン美術アカデミーでエゴン・シーレ(↓)と出会う。クリムトは30近くも年の若いシーレの才能を見初め、お互い影響を受けつつも彼を援助し続けました。
1908年ウィーン総合芸術展が開催され、ここで代表作『接吻』(↓)を発表、すぐさま政府買い上げとなる。
この頃から金色を多用するようになり『金の時代』と呼ばれています。
1909年 ベルギーの富豪アドルフ・ストックレ邸のための制作に着手する。
1911年ローマ国際芸術展に出品し『死と生』(↓)が1等賞を受ける。
1912年オーストリア芸術家連盟の会長に就任。
1913年ミュンヘン、ブダベスト、マンハイムの展覧会に出品。夏はガルダ湖畔に滞在して風景画を描く。
1917年ウィーン美術アカデミーの名誉会員に迎えられる。
1918年1月11日、朝突然の脳卒中に倒れ、病院に運ばれるも3週間後肺炎を併発して2月6日に亡くなりました。享年56歳。
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