こんにちは。管理人の河内です。
今回は18世紀から19世紀にまたがる動乱の時代、スペイン宮廷画家として活躍したフランシスコ・デ・ゴヤの独創的な作品を解説してみたいと思います。
当初はタピスリーの下絵を描く仕事から身を起こしたゴヤは、宮廷画家となったことで名誉と財産だけでなく、王室の誇る西洋美術の名だたる巨匠たちをその目で見る機会を得たことで多くのことを学びました。しかし一方でそうした伝統に囚われることなく独自の世界を展開し、近代を予感させる芸術家でもあります。
特に晩年自らの内面の苦悩と向き合った作品や、戦争の惨禍を目の当たりにして描いた作品は技法の上でも続く19世紀、20世紀の新たな美術を感じさせてくれます。
目次
1777年 111×176cm プラド美術館蔵
今作はエル・パルド宮の皇太子夫妻の食堂を飾るために描かれました。
当時の流行の衣服で着飾った若い娘が膝の上に黒い犬をはべらせ草の上に座っています。それをそっと後ろから若者が日傘を差し伸べ日陰を作っているという微笑ましい情景です。
外光を鮮やかな色彩と強い明暗で見事に表現しています。
少女は伝統的な風俗を好む“マハ”(=粋な女という意味)とは対照的に流行のペティメートラ、つまり“フランスかぶれの女”として描かれていますが、一方で一種の虚栄の象徴と読むこともできます。
1780年 255×154cm プラド美術館蔵
サン・フェルナンド王立美術アカデミーへ入会のために描いた作品です。
同時に提出された自薦状には『磔刑のキリストを描いた私の創意工夫による独創的作品』と記されていましたが、一見すると素直に伝統的な描法で描かれています。
天を仰ぎ苦悶の表情を浮かべたキリストが、3本の釘ではなく4本で張り付けられているという点でベラスケスの作品を模していると言われています。
結果は全会一致でゴヤは会員に推挙されました。
1794~95年 44×31㎝ マドリード、ラサロ・ガルディアーノ美術館蔵
オスーナ公爵夫妻のために描かれた魔女を主題にした6枚の作品のうちの一枚。
ゴヤの奇想な想像力が発揮された作品です。現実味ある人物たちと非現実的な雰囲気の組み合わせはすでに『黒い絵』を予感させています。
ゴヤは1794年に11枚の作品を描き病気に苛まれながらイマジネーションに発露を見出し注文画では許されない自由気ままな創作しました。
牡山羊は悪魔の象徴であり魔女集会の司会者です。それを囲むように魔女たちが幼児や嬰児をそれぞれ持ち寄り空には不気味にコウモリが飛んでいます。
ゴヤは版画を含め多くの作品で夜になると子どもたちをさらうと信じられていた魔女を描いています。そうしたことから魔女信仰に個人的にも画家としても興味を引いたのかもしれません。
1800-01年 280×336㎝ マドリード プラド美術館蔵
ゴヤが仕えたスペイン王カルロス4世とその家族を描いた集団肖像画です。
ゴヤが53歳で念願の首席宮廷画家に昇進した記念として1年以上の時間を費やして描かれた渾身の作品です。
ここに描かれた13人全員が正装し、勲章や煌びやかな宝飾品で飾り立てられています。
この何気ない家族の記念撮影的な作品で重要なのは、通常王侯貴族たちの肖像を描く場合、理想化して描かれますがゴヤはこの常識を覆しました。
まず最高権力者であるはずの国王を押しのけて王妃のマリア・ルイーサが中央に立ち、その表情はしたたかで傲慢な性格が如実に表れています。
その横にいるカルロス4世は沢山の勲章で飾り立ててはいますが表情は虚ろです。
そして絵の端の方でゴヤ自身が煌びやかな貴族たちを冷ややかに見つめています。
しかしそこにゴヤの風刺や悪意があったかは分かりません。また描かれた本人たちは『とても上手に描いてくれた』といたくご満悦だったと言います。
しかしそれらはみな崩壊していくスペイン・ブルボン王家を予見しているかのようです。
1797~1800年頃、97×190㎝ プラド美術館蔵
ゴヤの最も有名な作品で、服を着たバージョン『着衣のマハ』と対になっています。
当時の王妃マリア・ルイーサの寵愛を受け若くして首相となったマヌエル・ゴドイの依頼によって描かれました。
モデルはそのゴドイの愛人ペピータ・ツドォという説や、ゴヤの愛人とされていたアルバ侯爵の未亡人という説などあり確定はされていません。
ゴドイは自宅の居間にこの作品とベラスケスの《鏡を見るヴィーナス》を並べて飾り、ごく限られた客たちのみに見せていたそうです。
ゴヤは宮廷画家として王室コレクションのなかでもとりわけ豊かなティツィアーノやルーベンスの神話的裸体画に触れ大いに影響を受けたであろうと思われます。
『着衣のマハ』と比べるとこちらの方は髪をほどいていて表情も虚ろでありまたシーツが皺だらけであることから、情事の前後を想像させると言われています。
後年ゴヤはこの作品が“卑猥”で“不道徳”として異端審問を受けることとなりました。
1804~05年 82×54 cm ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
モデルはカスティーリャ審議会議員アントニオ・ポルセールの妻のイサベル・デ・ポルセール。
ゴヤがグラナダでこの夫婦から手厚いもてなしを受けた返礼として描かれました。
当時の貴族階級で流行したコケティッシュな衣装を身に着けたイサベル。
ピンクのサテンのガウンに黒いレースのマンティーリャ(薄い絹のショール)を羽織り、ポーズを決める典型的なマハ(=粋な女)の肖像として描かれています。
黒く大きな瞳と肉感的な唇、バラ色の肌と豊かな胸、これらすべてはスペイン女性特有の“情熱”を体現しているかのようです。
1808~12年ごろ 162×107㎝ ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
“マハ”とは個人名ではなくその美貌、魅惑的な衣装、気まぐれな生き方をする庶民階級出身の“粋な”女性たちを指している言葉です。男性の場合は“マホ”といいます。
若い女性が二人バルコニーに腰かけて通りの若い男たちに誘うような視線を投げかけている場面です。
着飾って豊かな胸を見せるこの二人は娼婦であり後ろの怪しい男たちは斡旋人でしょうか。
1808~12年頃 116×105㎝ プラド美術館蔵
スペインとフランス国境にあるピレネー山脈を思わせる山並みに突如出現した“巨人”。
前景では馬や牛、群衆が逃げ惑っています。巨人は戦争、野蛮あるいは侵略者ナポレオンを象徴しているのでしょうか。
おそらくゴヤは、ナポレオン戦争についてスペイン人の詩人ファン・バウティスタ・アリアーサが匿名で発表した次の詩句からインスピレーションを得て描いたと考えられます。「大地の窪みのはるか高みに/巨人がおぼろに立ち現れた/沈みゆく夕日の熱い光を浴びて」
これはスペイン民衆に侵略者フランス軍に対する決起を呼び掛けた詩で、巨人自身がナポレオンに対する反抗を象徴する存在という見方もあります。
いずれにしても対仏独立戦争の恐怖や混乱を象徴的に描いていると考えら後の『黒い絵』に発展するゴヤの恐るべき想像力の一端が見てとれます。
【訂正】現在は2009年の科学的調査により「AJ」と言うサインが見つかったことからゴヤの真筆ではなく弟子のアセンシオ・フリアの作とされているそうです。
1810~12年ごろ 181×125㎝ リール美術館蔵
1812年のゴヤの財産目録に『時』として記載された作品。
「老いと若さ」の三部作のうちの一枚です。フランス国王ルイ・フィリップのスペイン・ギャラリーを経てリールの美術館に入った際、対幅とするために4辺が増幅されました。
西日(?)が差し込む暗い部屋で、流行おくれの白いドレスを着た老婆、手にはかつての若き自分が描かれた細密画を持ち哀し気な目でじっと見つめています。その横から黒いドレスの老婆が鏡を差し出し今の姿を映し、彼女に見せています。鏡の裏には「Que Tal?」(どうだい?)と書かれていて、若く美しかった過去の自分と年老いて醜くなった現在の自分を見比べさせ時の容赦のない変化を見せつけ、切なさすら感じさせる場面です。
背後には箒を手にした翼の老人『時の翁(サトゥルヌス)』がそれを覗き込んでいます。
1814年 266×345㎝ プラド美術館蔵
『マドリード、1808年5月3日、マドリード プリンシペ・ピオの丘での銃殺』という長いタイトルです。
この作品は対となる《1808年5月2日、マドリードエジプト人親衛隊との戦い》とともに「近代絵画の爆発」と讃えられる戦争画の二大記念碑とされています。
対仏独立戦争の終結後、帰還するフェルディナンド7世のための凱旋、または独立記念の一種のプロパガンダとして制作されたとみられます。
このプリンシペ・ピオの丘ではナポレオンのフランス軍によって女性子どもを含む43名がこの日銃殺されました。フランス軍兵士は逆光の影になり、また背を向けているため表情が分からずそこに感情を読み取ることはできません。反対に照明に照らされ人間的感情をむき出しにした市民は、各人各様のポーズで死の暴力と対峙しています。
中央の白いシャツを着た男の磔刑を思わせるポーズは、そこに神の救済はあるのかを問うているようでもあります。
1819~23年頃 146×83㎝ プラド美術館蔵
晩年の連作『黒い絵』全体の思想を解くカギとなる作品です。
農耕神であるサトゥルヌスは大地母神から自分の子に支配権を奪われると予言され、生まれてくる子供を次々と貪り食います。
その後サトゥルヌスはすべてを滅ぼす『時の翁』像と合体し、憂鬱、老齢、退廃、破壊を属性として体現する存在になります。
修復前の写真ではサトゥルヌスの男性器が勃起していたといいます。
この絵はゴヤが晩年隠遁生活を送った『聾の家』の一階食堂の壁面に描かれていたのですが、これを見ながら食事をするというのは一体どういった心理状況だったのでしょうか。
「黒い絵」は、漆喰の壁の上から油絵具で描かれた壁画で、1873年当時の『聾の家』所有者だったフランス人のデルランジェー男爵によってキャンバスに移し替えられました。
1820~24年 134×80㎝ プラド美術館蔵
《砂地の中に埋もれ、首だけ出している犬》というなんとも不思議な絵です。
これも連作『黒い絵』の中の一枚です。
自宅の壁に描かれていたため他人の注文でも誰かに見せるためでもない絵。
ゴヤはこの絵に老いた自分を重ね合わせ、老残の姿を犬に託したと言われています。そして犬(自分)はすぐそこまで迫る『死』という『絶望』、逃れようのない現実を前にしているのです。
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