こんにちは。管理人の河内です。
今回の記事では以外と知られていないヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「ひまわり」についてのエピソードをご紹介します。
”ゴッホ”と言えば「ひまわり」、「ひまわり」と言えば”ゴッホ”と言われるくらい有名なゴッホの『ひまわり』ですがそのゴッホの「ひまわり」、実は複数存在することはあまり知られていないかもしれません。
実はゴッホは『ひまわり』を何点も描いています。
そのうち広く一般的に皆さんが思い浮かべる「複数のひまわりが花瓶に挿されている状態のもの」に限定すると6点、それ以外の状態のものを入れると11点が現在確認されています。
そして《”複数”のひまわり》は、実際には7点あったのですが、一点は日本で戦時中に消失したため現存するのは6点のみとなっています。このエピソードはこちらの記事をご覧ください⇒【知っているようで知らない?ゴッホにまつわるエピソード】
この7点はどれも同じような構図で描かれていますが、ひまわりの本数が3、12、15本と異なっています。
目次
ではなぜ、ゴッホはこのように同じような構図で『ひまわり』を何点も描いたのでしょうか?
ゴッホがこれらの『ひまわり』を描いたのは、ゴッホの10年ほどの画歴の中で南仏アルルで暮らした1888年から89年の間のわずか1年ほどの限られた時間帯でした。
第一の理由としては、実はゴッホはこのひまわりに限らず一度自分が描いた作品を見ながらもう一度描き直すということをやっています。
まあ、これはゴッホに限らずほかの画家も良くやることではあるのですが余りにも『ひまわり』の印象が強すぎて一点ものと思われがちかもしれません。
ではなぜ『ひまわり』だったかというと、実際のところはゴッホに聞くしかないのですが、当時ゴッホが画滞在していたこの南仏アルル周辺では、もともと種から油をとるためにひまわりが数多く栽培されおり大変身近な花(モチーフ)だったことが考えられますね。
もう一つの理由は、ゴッホは南仏アルルに移り住んだ時、ゴッホはそこで芸術家仲間で共同生活をする”芸術家コミュニティー”を作ろうと夢見ていました。
そのためゴッホは「黄色い家」を借りて12脚の椅子を揃え、そこに「愛と芸術の象徴」であるひまわりの絵を12枚飾ろうと計画をしていたというものです。
ゴッホはそこで自ら語るように『ブイヤベースを食べるマルセイユ人のような熱心さで』この連作に取り組みました。
ゴッホは弟テオへの手紙の中で、ゴーギャン来訪の期待に胸を膨らませながら『ゴーギャンが僕のアトリエで一緒に暮らすことを期待して、部屋の装飾を作りたい。それも大きなひまわりばかりで。~この計画を実行すれば全体が青と黄色で一つのシンフォニーになるだろう』と書いています。
これを読めばもうやはりゴッホにとって『ひまわり』は特別な花だったというほか無いですね。
さらに『ひまわり』は独立したひとつひとつの作品と思われますが、連作、または全部で一つの作品と見ることもできるのです。
しかし残念ながらやってきたのはゴーギャンただ一人…
そのゴーギャンともわずか2か月であの「耳切り」事件で破たんしてしまいます。
しかしそのゴーギャンも、ゴッホの『ひまわり』は評価しており「これこそ…花だ」と言ったそうで救われますね。
ゴーギャンとの『耳きり事件』についてはこちらの記事もご覧ください。
ゴッホはゴーギャンが去った後、失意と悲しみの中で残りの3点を描き上げました。
ゴーギャン来訪に胸を膨らませ描いたときとはまるっきり正反対の心境でゴッホはどんな意味を『ひまわり』に込めたのでしょうか…
英語でも「サンフラワー」と言われる「ひまわり」は、その太陽のような形状と、常に太陽を目指す性質、強く鮮やかな色彩などまさにゴッホ自身であったと言える花ですね。
悲しい物語があった6点の《ひまわり》現在これらの作品はイギリス、ドイツ、オランダ、アメリカ、日本に分散して所蔵されています。
最後に所蔵先と作品をどうぞ。
ノイエ・ピナコテーク (ドイツ ミュンヘン)
ロンドン・ナショナルギャラリー(イギリス)
ゴッホ美術館 (オランダ アムステルダム)
フィラデルフィア美術館 (フィラデルフィア アメリカ)
損保ジャパン日本興亜美術館 (日本 東京)
アメリカ 個人蔵
戦時中に焼失した通称「芦屋のひまわり」
こちらについては【ゴッホにまつわるエピソード】にも書いてありますので参照ください。
【ゴッホに関するお勧め記事】こちらも合わせてご覧ください。