こんにちは。管理人の河内です。
今回はゴッホの夜をテーマに描かれた風景画=「夜景」をピックアップして解説してみたいと思います。
ゴッホと言えば、「ひまわり」に代表されるような明るい色彩が特徴ですが、一方でゴッホほど夜の景色を印象的に描いた画家も珍しいのではないでしょうか。
考えてみると、ゴッホは同時代に活躍したモネら『印象派』の画家たちから多くの影響を受けましたが、『印象派』の画家たちはほとんど夜景を描いていませんね。
それは彼らが別名『外光派』とも呼ばれるように「光」、それも移ろう「太陽の光」をとらえることに大きな関心があったからです。なので太陽が沈んだ後の星や月の光、ましてや人工的な光には関心を示さなかったのも当然といえば当然ですが(;^_^A
一方ゴッホは、それほど太陽の光にこだわった感じがしませんね。ゴッホが療養のためにパリを離れてアルルに移った際、南仏のまばゆい陽光に大きな刺激を受けて、色調は一気に鮮やかさを増しましたが、その「外光」を捉えようというよりは、むしろ内から湧き出る感情を色彩に乗せて表現しようとした画家と言えます。
目次
正確にゴッホが夜の景色を何点描いたかを言うのは難しいかも知れませんが、「夜のカフェ」に見られるようないわゆるゴッホらしい作風で描かれた作品は、パリを去って以降、すなわちアルル時代になってから描かれています。
そのことを物語るように1888年、ゴッホは弟テオに宛てた手紙の中で次のように書いています。「夜の情景や夜の効果を即座に描くこと、夜そのものを描くこと、僕はこの問題に夢中になっている」このことからもゴッホは新天地の南仏で昼間の陽光だけでなく夜の星月夜にも魅了されていたことが分かります。
そうしてゴッホは夜もキャンバスを抱えて戸外へと出かけ、ガス灯の光の下で写生をしました。(実際仕上げは屋内のアトリエで行ったようです)当時、文明の発達の象徴ともいえるガス灯の明かりや、窓から漏れる部屋の光などの人口光もゴッホにとっては魅力的な要素だったのでしょう。これらを鮮やかな黄色で表現しています。
「夜のカフェテラス」 1888年アルル時代 81.0×65.5㎝
「ローヌ川の星月夜」 1888年アルル時代 72.5×92㎝
このようにアルル時代、ゴッホは夜景に魅了され、それを忠実に写し取ろうとしますが、有名な「耳切事件」を起こして自らサン=レミの療養院に入院すると、その作風に変化が現れます。
ゴッホは入院中も、てんかんの発作に襲われながら精力的に制作をしていて、その中に「夜景」作品も複数描いています。
しかし精神を病むにつれ単に自然を写し取ることはなくなり、星や月の輝き、夜空は独特のうごめくような流れを作り始めます。
「星月夜」
この作品は、ゴッホがサン=レミのサン=ポール療養院に入院中に、ゴッホの部屋の窓から見える風景を描いたものです。ゴッホは数点この「星月夜」を描いています。
画面中央下に描かれた教会は、実際には存在せず、故郷のオランダで見られる教会を描き込んでいます。つまりこの作品は実際の風景をもとにした、ゴッホのイマジネーションの産物でもあるわけです。
左前景には大きな糸杉が描かれていますが、それはまるで地面から立ち上る黒い炎のように揺らいでいます。そしてその糸杉の蠢きと呼応するかのように、月あかりや星空が激流のように渦を巻いています。
糸杉は、ヨーロッパでは昔から棺桶の材料に使用されることから「死」を暗示するものであり、ないはずの教会を書き加えるなど精神を病んだゴッホは死を意識し、天空に光る星の世界に死後のイメージを見ていたのかもしれません。
療養院を退院したゴッホは、健康を取り戻しいったんパリのテオを訪れた後、終焉の地オーヴェール=シュル=オワーズへと向かいます。
そこで描かれた作品がこちら
そしてこちらがゴッホの遺作と言われる「カラスのいる麦畑」
ゴッホはこの絵について「悲しみと極度の孤独感を表現した」とテオへの手紙に書いています。
重苦しい空の下、麦畑の真ん中を這う一本の道と黒いカラスたちはまるで死の世界へと誘っているかのようです。
ゴッホはこの麦畑で自らの胸に銃弾を撃ち込んだと考えられていますが、そう考えると怖くもあり悲しくもある景色に見えてきますね。
この2点については夜景というには議論の分かれるところかもしれませんが、漆黒から濃青の重苦しい空は夜の風景と見ることもできますね。
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