鮮やかな色彩とダイナミックな構図でそれまでの常識を打ち破る作品で『美の破壊者』とまで呼ばれたドラクロワ。
「単なる古代の模倣には何の意味もない」と考えていた彼は人間の内面を抉り出し、感情をありのままに表現し、当時の美術界から激しい非難を浴びました。
そんな人間の持つ感情や苦悩をキャンバスにたたきつけたドラクロワの作品を詳しく解説していきたいと思います。
目次
1822年 189×241.5㎝ ルーブル美術館蔵
ドラクロワ24歳の時の作品で初めてサロンに入選した作品です。
13,4世紀のイタリアで活躍した詩人ダンテの有名な『新曲』の「時獄篇」を主題にした作品で、ロマン派の友人ジェリコーの『メデュース号の筏』に触発されて描いたと思われます。
地獄の町ディナの城壁を囲む湖を、ダンテとウェルギリウスが船で渡ろうとしたところ、亡霊たちが乗り込んで来ようとするまるでゾンビ映画のワンシーンのような恐ろしいシーンです。
強い明暗のコントラスト、衣服の鮮やかな赤と青の対比、芝居がかったポーズに人物たちの表情などすでにロマン派の特徴が表れています。
また地獄で永遠の責め苦を受け続ける亡者たちの筋骨たくましい体はミケランジェロの『最後の審判』を思わせます。
この作品は賛否両論分かれましたが、審査員であったジャン・アントワーヌ・グロの後押しで入選を果たしたと言われています。しかしグロは何と敵対する“新古典主義”の画家でしたが、実はロマン主義的な自由な絵に憧れていたのです。
1823年 65.5×54.3㎝ ルーブル美術館蔵
《習作》としてサロンに出品された作品です。同時に出品された《キオス島の虐殺》があまりにも騒ぎを起こしたため話題にされることはなかったようですが、おそらく両親を失って墓地で茫然自失とした少女を描いたものでしょう。
大きく見開いた眼、半開きの口は放心したようなそれでいてどことなく真の強さも感じます。ルーベンスの影響でしょうか、それほど動的なポーズではありませんが、習作ということもあってか、大胆で素早い筆致が少女を動きのなかで捉え躍動感のある画面になっています。
1823-24年 419×354㎝ ルーブル美術館蔵
この作品でドラクロワは一躍注目を集めます。
サロンの目録には「キオス島の虐殺の情景―死または奴隷となることを待つギリシャ人の家族たち」と記されています。
今作品の主題は1820年以来、トルコの支配に対してギリシャ人が起こした独立戦争中のエピソードです。
この戦争は同じヨーロッパ人からは、イスラムからヨーロッパを開放する闘争として受け止められました。
1822年エーゲ海に浮かぶキオス島を、トルコ兵が攻略し島の住民を虐殺したのです。
ドラクロワが初めて“ロマン主義的(ロマンティック)”という言葉と結びつけられたのがこの作品だと言われています。
実際、遠く広がる地平線と低く垂れこめた空とその下で展開する人間たちのおろかで凄惨な光景の対照性はロマン主義的といえます。
また前景の細部に見られる橙色や緑色は当時としてはとても斬新な色の使い方をしており色彩画家としての片鱗をのぞかせています。
1826年 213×142㎝ ボルドー市立美術館蔵
ミソロンギはギリシャ中西部、パトラス湾に面した町の名前です。ギリシャ独立戦争において有名な戦場となったところで、戦争勃発以来トルコ軍によって何度となく攻撃を受け廃墟と化しました。ここはまたドラクロワが敬愛していた詩人バイロンが戦死した地でもあります。
この廃墟に手を広げ、うつろな表情立つ女性は“ギリシャ”を擬人化したものです。
『キオス島の虐殺』に続く2度目のギリシャ独立戦争に主題した作品ですが、今回はドラクロワとして初めて現実の事件と伝統的な手法である寓意人物像を組み合わせています。
廃墟の町で絶望に立ちすくむ民族衣装の女性はドラクロワの好んだモデル、ロール嬢を使ったと言いわれています。
1828年 392×496㎝ ルーブル美術館蔵
1821年ドラクロワが傾倒していた作家バイロンが書いた戯曲『サルダナパロス』を主題にした作品です。
サルダナパールは紀元前822年ごろのアッシリアの王。
敵軍に攻め込まれ死を覚悟した王は、自らの愛妾たちを殺させ宮殿に火を放って最期をむかえました。
まさに阿鼻叫喚の凄惨な場面ににもかかわらず、サルダナパールは悠然と豪華な緋色のベッドの上に片肘をついた傲慢な態度で、虚ろな眼差しでこの情景を見守っています。
ドラクロワはこの凄惨な場面を光と影の効果とともに全体を赤と金色で構成し、黒人の黒い肌と愛妾達の白い肌のコントラストを使ってより劇的に構成しています。
しかし描かれた当時この作品は非常に評判が悪く国家も買い上げを見送っています。
1830年 260×326㎝ ルーブル美術館蔵
歴史の教科書でもおなじみの作品ですね。
実は管理人自身も勘違いしていたのですが、これはいわゆる《フランス革命》の時の絵ではなくそのあとの『7月革命』を題材にしたものなのです。
フランス革命後、一度は王政が復活しますが、その圧政に市民たちが蜂起したのです。
この絵には”抑圧に屈することなく武器をとって戦え”というメッセージが込められているのですが、まさに何もその背景を知らない人が見てもそれが伝わりまよね。
ドラクロワは劇場的効果を高めるために、前景で横たわる3人の体を短縮法(実際より短く詰ったように描くことで後ろへ退いているかのように錯覚させる手法)で描いています。
そしてそれらを踏み越えて光に照らし出された女神に鑑賞者の視線は移動し、鮮やかな3色旗へと導かれるのです。
また向かって左で銃を構えるシルクハットの男性は、ドラクロワ自身だと言われています。ドラクロワは『祖国のために敵を打ち破ることはできなかったとしても、少なくとも国のために作品を描くことはできる』と語っており、その気持ちをこの絵に込めたのかも知れません。
1834年 180×229㎝ ルーブル美術館蔵
1832年のモロッコ旅行の最も優れた成果であり、オリエンタリズム作品の代表作として最も有名な作品です。また後にルノワールやピカソらにもインスピレーションを与えたことでも知られています。
モロッコ旅行の帰途立ち寄ったアルジェリアで、実際のハーレムを見て作品化したものです。その現場でドラクロワが描いたと思われる水彩画が残っています。ドラクロワはその時『なんて美しいんだ!まるでホメーロスの時代のようだ!』と叫んだと伝えられています。
画面には民族衣装に身を包んだ美しいアルジェの女たちが物憂い表情でまどろんでいます。
窓から入る強い光に照らされた部分と室内の暗い闇が好対照をなして北アフリカの熱気を感じさせ、どこかもの憂い官能性を漂わせた異国情緒あふれる世界を創り上げています。
女性たちの装身具や水煙草、絨毯や幾何学模様のタイルなど、作品の随所にこれでもかとばかりに東洋趣味を盛り込んでいます。
また赤と緑、青とオレンジなどお互いにその輝きを高め合う補色の効果を意識的に使っており、こうした色彩の明るい効果は後の印象派に大きな影響を与えました。ルノワールはこの作品を「世界で最も美しい絵」と称え、セザンヌは「まるで一杯のワインがのどを通るように目の中に入り、たちまち私たちを酔わせる」絶賛しました。
1838年 260×165㎝ リール市立美術館蔵
古代ギリシャ悲劇、エウリピデスの『メディア』の物語を主題にした作品。
ギリシャからアルゴス船に乗ってコルキス王のもつ金羊毛を探しに出たイアソンは、彼に恋した王の娘で魔術に通じたメディアの助けを得て目的を果たしました。イアソンとメディアは結婚して二人の子をもうけましたが、後にイアソンがコリントスの王の娘を娶ろうとするのをしり、怒りに燃えて花嫁を毒殺、二人の子供たちも殺害してしまいます。
ドラクロワの描いたこの場面はまさにメディアが怒りのあまり我が子たちを刃にかけようとしている場面です。
三角形(ピラミッド型)の古典的構図を使い半裸の白い肌と子どもたちにスポットライトを当て凄惨な場面をよりドラマチックに見せています。
1838年のサロンに出品されたこの作品は『今までにドラクロワが生み出したもののなかで最も美しい』『ドラクロワが生み出した全女性のイメージの中でも最も印象に残るもの』などと称賛されました。
この主題にはドラクロワ自身愛着があったようで幾つかのバージョンで繰り返し描いています。
1838年 45.5×37㎝ ルーブル美術館蔵
ショパン28歳の時の肖像画です。
音楽にも造詣が深かったドラクロワは、ショパンのピアノを愛し、当時ショパンの恋人だった女流作家のジョルジュ・サンドを加えて親しく交流していました。
この肖像画は、元はピアノを演奏するショパンの側にジョルジュを立たせて二人の肖像画として制作されたものでしたが、なぜかドラクロワの死後に切り離されてしまいこの構図になりました。
まだほとんど茶褐色の下書きの段階からホワイトでモデリング(肉付け)し始めた制作初期の段階ですが、ドラクロワの特徴である素早く流れるような筆致が見てとれ、ショパンの強い眼光に焦点を当てようとしていたことが分かります。
1840年 410×498㎝ ルーブル美術館蔵
フランドル伯ボードワンに率いられた第四回十字軍が、キリスト教の聖地エルサレムを奪回するという当初の目的から逸脱し、同じキリスト教国である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した事件を主題とした作品です。
ボードレールはこの作品について『主題を考慮に入れないとしても、その雷雨をはらんで凄惨なハーモニーによってかくも深く胸に食い入るものがある』と言っています。これは『サルダナパールの死』と同じく、惨く酷い状況、見る者に苦痛を与えることによって、より美しさが際立つといういわゆる“苦痛の美学”とでもいえるロマン主義特有の感受性の特徴を表していると言えます。
1847年 リュクサンブール宮天井装飾画 直径680㎝
当時いくつもの大規模な公的な仕事を受けていたドラクロワ。
その内のひとつブルボン宮の仕事と並行して制作されたリュクサンブール宮殿の図書室の丸天井と半円部を飾る天井装飾画です。
描かれているのはダンテの『神曲』の《地獄編》第4歌に登場する《辺獄》です。《辺獄》とは真実の信仰を持たなかった善良な魂が住むところで、キリスト教の洗礼を受けなかった『異教』の詩人たち、オイディウスやホラテウス、ホメロスたち。
「異教」と言ってもキリストが生まれるずっと昔の人ですからね(;^_^A
その他光輝く天上のような風景の中にはカエサルやトラヤヌス、マルクス=アウレリウスなどの古代ローマ皇帝たちも描かれています。
ドラクロワの個性が光るというよりも、ルネサンス以来の様式にのっとった伝統的な大規模装飾画ですね。
1861年 751×485㎝ パリ サン・シュルピス聖堂
パリ、サン・シュルピス聖堂の聖天使礼拝堂内に描かれた3つの壁画のうちの一つで、ドラクロワ最晩年の傑作のひとつです。
この絵の主題は旧約聖書の創世記から描かれました。ヤコブはイスラエル民族の始祖となった人です。
神から使わされた天使が急にヤコブに襲い掛かり、二人は鬱蒼とした森の中で夜明けまで激しい格闘をつづけます。
この戦いで最期はヤコブが勝利してイスラエル(神が支配い賜うという意味)を名乗ることを神から許され、彼の12人の息子たちが12部族となりました。
この物語をドラクロアは『選ばれたものが神から与えられる試練』の寓意でありこの作品テーマであると語っています。
画面中央にはシャンロゼの森でスケッチしたという樫の大木が葉を茂らせ、朝焼けが遠くの空を染めています。
この作品はとりわけゴーギャンやシニャックをはじめ後期印象派以降の画家たちに直接的な影響を及ぼしました。
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