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「20世紀最大の巨人」パブロ・ピカソとは一体どんな画家だったのか?詳しく解説します。

こんにちは。 監理人の河内です。

この記事では20世紀最大の画家パブロ・ピカソを取り上げます。

ピカソといえば有名すぎるくらい有名な画家、学校の美術の教科書には必ず乗っていますよね。

でもダ・ヴィンチなどと違って「リアル」な絵ではなく「訳の分からない絵」、「子供でも描けそうな絵」の代表みたいに言われることもよくありますよね?

「本当はとても上手く描けるから、わざとあんな変に描いているんでしょ?」なんていう人もいます。

管理人が開いている絵画教室でも「全く訳が分かりません」「あれのどこが美しいんですか?」「ピカソの何が良いんですか?」などとよく質問を受けます。

さて実際はどうなのでしょうか?

20世紀で一番有名な画家であり、生前から巨匠の名をほしいままにしていたピカソ。その人生は数々の女性遍歴に彩られ、ギネスに乗るほどの膨大な数の作品を残したことでも知られています。

人間ピカソとは実際はどのような人物だったのでしょうか?そしてなぜあのような「分からない」絵を描いたのでしょうか?

その画業と人生を、いくつものエピソードをご紹介しながら数回に分けて解説します。

ピカソってどんな人?~どうして巨匠なの?

ピカソってどんな人?

パブロ・ピカソ。言わずと知れた20世紀最大の画家。

桁外れの独創性とカリスマ性をもったアートの巨人。スペイン出身。

本名が長いことでも有名ですね。

パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ

故国スペインでは名前に母方、父方、祖父母、聖人、縁者、祖先など次々と足していくそうで、とても長すぎて覚えられません(>_<)

長すぎて本人も言えなかったとか…

 

ピカソは画家であり美術教師であった父の英才教育のもと幼少時代からすでに神童として抜きんでた才能を示していました。

その父が息子の才能に驚愕して自ら絵筆をとることを止めたという有名な話があります。

↑ピカソ16歳ごろの作品。お父さんが筆を折るのも分かりますよね(;^^A

そんなピカソは、例えばゴッホに代表されるような、私たち一般が持つ才能はあっても世間には認めてもらえず貧乏暮らし、孤独で破滅的といった画家のイメージとは無縁の画家でした。

若い一時期を除けば常に絵は売れ続け、生きている間にも作品価格は高騰し、最後はお城に住んでいたというまさに美術界の王様でした。

 

「私が紙にツバを吐けば、額縁に入れられ偉大な芸術として売りに出されるだろう」などと豪語し、実際に紙切れにサインを入れただけでレストランの食事代となったり、愛人との手切れ金として与えた家は、一晩で描いた静物画と交換して手に入れたといいます。

 

そしてなんといっても破天荒なまでの女性遍歴はピカソを語る上では欠かせません。

若い頃のピカソ。

背が低いことがコンプレックスのようでしたが眼光鋭いイケメンでしたね。

 

ピカソは保守的なスペインで生まれ育ちました。

画家を志して大都会パリに出てきた当時は、路上で恋人たちが抱き合って口づけするのにさえ赤面するような純朴な青年でしたが、成長するにつれ何人もの女性と関係を持ち、終生衰えることのない奔放な性愛生活を送りました。

 

そして相手が変わる度に作風はがらりと一変し、全く新しいスタイルを創造していきます。

 

そのスタイルはそれぞれ「青の時代」「バラ色の時代」「キュビズムの時代」などと呼ばれ、まるで別人が描いたかのようです。

 

ピカソにとって交際した女性たちはまぎれもなく彼の想像力の源泉(芸術の女神)だったのです。

しかし後年ピカソは「女性は女神かドアマットのどちらかだ」と女性蔑視も甚だしい迷言を吐いています。

恋する女性に出会って燃え上がれば新しいインスピレーションを受け、他に浮気をすればその女性を踏み台にして別の女性へとなんのためらいもなく移っていくのです。

破壊と創造を繰り返し、様々な表現様式を開発したピカソですが、とり分け「キュビズム」はまさに「わからない絵」の代名詞となります。

キュビズムの先駆けとなった「アヴィニョンの娘たち」

発表当時、周囲の人間も「ピカソはとうとう気が狂った!」とさえ言ったといいます。

しかしこの「キュビズム」こそがピカソの代名詞であり、その後の美術の歴史を大きく変えた作風なのです。

先達のセザンヌから大きな影響を受け、友人ジョルジュ・ブラックと共に開いたこの新しい表現は、抽象画への道を開くなど後年の芸術に大きな影響を残しました。

「キュビズム」は「立体派」と訳され、モチーフを一方からだけではなく、いろんな方向から見る「多視点」から眺め、それらを単純な形態として捉えて分解し、再度パズルのように組み合わせて一枚の絵にするという手法です。

ピカソの画風について詳しくは【創造と破壊!ピカソの画風とその変遷】をご覧ください。

ピカソとアートビジネス

ピカソを20世紀最大の画家としたものは、彼の芸術的才能だけではありません。

19世紀後半に生まれた画商と美術市場という新たな分野を巧みに利用して、自らの市場価値を高める今でいうブランディング能力にも長けていたことがあげられます。

 

それまで絵画の売買は、一部のブルジョアたちが画家に自分たちの肖像画や、好みの絵を注問して描かせるというのが通例でした。

 

しかしピカソがパリに出てきたころは、絵を専門に扱う画商が生まれ、美術を商品として流通させる市場が誕生していたのです。

そこでは少し前の世代の印象派が世に認められ、投機の対象になるほど美術市場は広がりをみせていました。

初めは“前衛“として軽く(安く)扱われていたモネやルノワールの絵の値段が、アメリカをはじめ、高騰していくバブル時代でした。

株式市場がそうであるように安く買って高く売る、それが市場の原理です。

そのような市場は常に新しいものを待っています。

印象派の画家たちが亡くなっていく中で、市場は印象派の次の”投資対象”を求めていたのです。

ピカソはそのようなとき新進気鋭の若手画家として絵画市場に登場しました。

当時のピカソの画風はセザンヌやロートレック、シャバンヌといった一流画家たちの画風をミックスしたような「バラ色の時代」で、これが一躍脚光を浴びてデビューしました。

バラ色の時代の作品。

そしてピカソはその後も新しい表現を生み出し続けました。

それは言い換えれば常に新鮮な表現=新しい投資対象であり続けたということでもあります。

破壊と創造を繰り返すピカソは、市場原理にマッチし、常にトップであり続けたのです。

こうしてピカソはその類まれな技術とビジネスセンスで若くして伝説的な存在とりました。

しかも91歳で亡くなるまで、その創造性は止まることはなく膨大な数の作品を残したこともまたピカソの巨人たる所以です。

その数は分かっているだけでも油絵だけで1万3千点!

その多さでギネスブックに認定されているほどです。

 

通常は特定の画家の作品は、数が多いほど市場価値は下がるものです。

しかしピカソの場合、死後も世界の名だたるオークションで数十億から百億を超える値段で取引されていることからもその重要性が分かります。

このように生前から天才の名を欲しいままにしてきたピカソですが、最晩年になって「ようやく子供の絵が描けるようになってきたよ、ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」と語ったというのは何とも意味深で考えさせられますね。

 

 

ピカソの生涯~ざっくりと

ここでピカソの人生を簡単にご紹介します。詳しい生涯についてはこちらをご覧ください。

・「20世紀の巨人」パブロ・ピカソの生涯を詳しく解説します。

1881年スペイン、マラガに生まれる。95年にバルセロナに移住。

幼いころより卓抜した絵の才能を発揮し、画家であり教師でもあった父がその才能に驚愕。自らの筆を折ったともいわれています。

 

当時スペインで芸術文化の中心地であったバルセロナやマドリードで美術を学びますがすぐに中退。

1900年に友人カサへマスらとパリへ出ます。その後パリとバルセロナを行き来するようになります。

 

パリ・モンマルトルの「洗濯船」と呼ばれるアパートにアトリエを構える。

若く貧しい駆け出しの画家が集まりました。パリ版トキワ壮(?)

 

友人カサヘマスの自殺を機に「青の時代」と呼ばれる作風を展開。

 

恋人との出会いを機に「バラ色の時代」と呼ばれる作風へと変更し画家として認められ始めます。

1907年「アヴィニョンの娘たち」を制作。

これを端緒にジョルジュ・ブラックとともに「キュビズム」を創始。

後の抽象画への道を開くなど当時の芸術に決定的な出来事となりました。

 

1918年バレーダンサーのオルガと結婚してまたスタイルは一転します。

彼女の「私の顔が分かるように描いて」というなんとも屈託のない願いでから、あっさりと方向転換。

どっしりとした量感ある新古典主義へ変更。

ピカソはもともとが卓越したデッサンの技量を持っていたのでお手のものだったでしょう。

しかしオルガと不和になると、その精神的な不安定を反映してかシュルレアリスムに影響を受け非現実的な世界を描くスタイルへ。

その後まだ17歳だったマリー・テレーズと交際。

娘をもうけるもドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌ・ロックと次々と愛人を作ります。

ジャクリーヌとは1961年に結婚し彼女がピカソの最後を看取ることになります。

1973年に死去。最も多作な作家としてギネス認定も受けました。

 

ピカソの代表作

ここではピカソのそれぞれの時代の代表作ご紹介します。

詳しくは【美術の革命!ピカソの代表作を解説つきでご紹介します】をご覧ください。

ピカソ10代の作品

 

シュミーズ姿の少女 1905年

 

サルタンバンクの家族 1905年

 

アヴィニョンの娘たち 1907年

 

マンドリンを持つ少女 1910年

 

椅子に座るオルガ 1918年

 

母と子 1921年

 

ゲルニカ 1937年

 

 

ピカソの画風について

長い西洋美術の歴史の中で、これほどスタイルをころころと変えた画家も珍しいですね。

ピカソは上述のように、違う女性と交際するたびにそのスタイルを変え、美術市場のニーズに合わせて描き分けました。

そのスタイルごとに「青の時代」「バラ色の時代」「キュビズムの時代」などと呼ばれています。

親友を失って打ちひしがれていた「青の時代」、フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て精神的安定を得たことで暖かな色調となった「バラ色の時代」。

このころからピカソの絵はどんどん売れるようになり経済的な安定も手に入れます。

その後、ピカソはアフリカやポリネシアの文化などに触発されトーテム像や仮面を作品にとり入れたりしています。

またセザンヌの作品に感化され、1907年にキュビスムの先駆けとなる『アヴィニョンの娘たち』を制作。

 

1914年の第一次世界大戦のあと、エヴァを結核で失うとピカソは悲しみに暮れます。

その後、ジャン・コクトーの依頼でバレエの舞台美術を担当し、そのバレエ団のダンサーであったオルガ・コクローヴァと恋に落ち18年に結婚。

オルガに「私に分かる顔を描いて」といわれてそれまでの抽象的なキュビズムをあっさりと捨て、新古典主義というアカデミックな表現に戻ります。

 

このように出会う女性の好みやピカソの彼女たちへの感情の変化などもピカソのスタイルからは読み取れてある意味非常に分かりやすいですね。

印象派のモネは一生をかけて「光の移ろい」を表現しようとしましたが、ピカソはその真逆。

「画家にとって最悪の敵はスタイルだ」といっているように、壊してはまた作る、破壊と創造を繰り返すことがピカソにとってのスタイルだったといえますね。

 


【その他ピカソに関するお勧め記事】

こちらも合わせてご覧ください。

・「20世紀の巨人」パブロ・ピカソの生涯を詳しく解説します。

・美術の革命!ピカソの代表作を解説付でご紹介します!

・天才ピカソにまつわる様々なエピソードをご紹介します。

・想像と破壊!ピカソの画風とその変遷を追う!

 

 

 

 

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