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”万能の天才” レナルド・ダ・ヴィンチを分かりやすく解説!

こんにちは。管理人の河内です。

今回取り上げるのは“万能の天才”レオナルド・ダ・ヴィンチです。

あの世界一有名な絵画「モナ・リザ」を描いた人ですね。

「モナ・リザ」は世界で最も人気と権威のあるパリのルーブル美術館の至宝ともいわれています。

↑パリ ルーブル美術館

数年前に「ダ・ヴィンチ・コード」という小説、映画が大ヒットしましたね。

 

レオナルドはミケランジェロ、ラファエロと並んでイタリア盛期ルネサンスの三大巨匠と呼ばれていますが、特にレオナルドはイタリアの首都ローマの国際空港の名前にもなる程ですからその中でも筆頭に挙げられる人物です。

 

今からもう500年以上も前の人ですが、レオナルドは生きているうちから偉大な天才画家と呼ばれ21世紀になった今でもその評価は少しも揺らいでいません。

実はこれは結構まれなことなのです。

 

数百年もの長い歴史の中では様々な様式が入れ替わり価値観が変化するので、画家の価値評価にも結構浮き沈みがあるものなのです。

 

近代の画家ならまだしも、生きているうちは評価が高かったのに時間の波に忘れ去られたり、逆に死後何年も経ってから発掘されて「こんな素晴らしい画家がいたのか!」なんてこともあります。(フェルメールなどはその代表です。)

 

しかもレオナルド・ダ・ヴィンチの公的に真筆とされていて現在残っている作品はわずか12点ほどと驚くほど少ないのです。

そのうち大作は「最後の晩餐」↓ぐらい。しかもボロボロ。

 

あとは描きかけて途中で投げ出したもの↓や、上から別の画家に別の絵を描かれたもの、彫刻にいたっては一つも残っていません。

なのになぜレオナルドはこれほどまで 賞賛され、数百年にわたって天才の名を恣に出来たのでしょうか?

その生涯においても謎が多く興味はつきません。

今回はそんな謎多き天才の素顔を皆さんにご紹介するべくレオナルドの生涯、技法、作品を解説していきたいと思います。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチについて ~ダ・ヴィンチってどんな人?

イタリアルネサンスを代表する芸術家。

「モナ・リザ」といえば全く絵に興味のない人でも一度は目にしたことがあると思います。

世界最大の美術館であるパリのルーブル美術館の至宝あの「モナ・リザ」を描いたのが今回ご紹介するレオナルド・ダ・ヴィンチです。

一般にはダ・ヴィンチという呼ばれ方の方が多くて馴染みがあるかもしれません。

でも実はご存知の方も多いかもしれませんが、これは単に彼の産まれた村「ヴィンチ村出身の」という意味ですので、このブログでは専らレオナルドと表記していきたいと思います。

 

海外旅行先としても人気の高いレオナルドの母国イタリア。

行かれたことがある方も多いと思いますが、その首都ローマの玄関口、国際空港の名前はまさに彼の名前を冠した「レオナルド・ダ・ヴィンチ空港」、母国イタリアでいかにリスペクトされているかがこのことからも分かりますよね。

 

一般的には画家、芸術家としてのイメージの強いレオナルドですが、万能の人( uomo universale )との異名を持つように非常に多才かつそのどれもが天才的で時代を超えたものでした。

 

その才能と研究範囲は絵画、彫刻、冶金、音楽などの芸術分野だけでなく、数学、解剖学、土木、物理学、天文学、植物学、流体力学などなどあらゆるジャンルに及んでいます。

レオナルドがミラノ公へ自身を売り込もうとしたときには、芸術家ではなく軍事技師として雇ってほしいと自薦状を書いているくらいです。

自分にはあらゆる土木工事、築城、兵器設計と製造などの才能があり、また平和時には絵画、石造彫刻、鋳造彫刻もできると付け加えている有名な自薦状が残されています。

 

そんなレオナルドは多岐にわたる独自の研究を通して、ヘリコプターやコンタクトレンズ、戦車など当時では考えられない画期的なアイデアを生み出しました。

それらを詳細なデッサンと有名な鏡文字で記した膨大な手稿を残しましたが、そのほとんどをレオナルド自身は公表することがなく、アイデアが実現することはありませんでした。

鏡文字とは、文字を反転させた状態で書いたレオナルド独特の文字のことです。鏡に映した時初めて普通の文字として読める。

レオナルドがなぜ鏡文字を使って書いたかは諸説あります。

例えば正当な教育を受けていなかったからだとか、アイデアを他人に盗まれないようにするため、単に左利きだったため書きやすかったなど。

 

 

レオナルドは完全主義者であったため、制作のスピードが非常に遅く、作品を依頼されてから依頼主の手に渡るまで20数年かかったこともありました。

また最高の表現を追求するあまり数々の実験的な手法を取り入れたため、失敗作も多く未完成のまま放置された作品も多く残されています。

 

しかしその作品へのこだわりと飽くなき探求心が、当時低い身分であった画家を、職人から現代的な”芸術家”へと昇華させた最初の人となったのです。

 

若くして才能を開花させたレオナルド。それを示すエピソードに、まだ二十歳前後の弟子だった時代、師匠のヴェロッキオとの共同制作でそのあまりの出来栄えに師匠がそれ以降絵を描かなくなったという話があります。

この左側の天使がレオナルドが描いた部分です。

顔の表情、髪や衣服の質感まで神々しさすら感じます(*´ω`)

 まだ若い弟子にここまで完璧に仕上げられたら師匠も形なしですね。

「最後の晩餐」などは下絵を見るためだけに長蛇の列ができたといいますから当時の名声は推して知るべしです。

 

しかしいくら溢れる才能と技術があってもプロの画家としてはいただけない人でした。

同時代に活躍したミケランジェロやラファエロと違い、仕事を頼んでも一向に仕上がらず、失敗を繰り返しては完成させないという依頼主にとってはとても困った職人だったのです。

残された作品の数からも分かるように当時の一流芸術家というものは、ローマ教会や貴族などの権力者から大量の依頼を受け多くの作品を残しています。

(ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂、ラファエロのバチカンの壁画などを見れば一目瞭然ですね)

対してこだわりが強すぎたレオナルドが完成させた作品は数えるほどしかありません。

そのため大きなパトロンに召し抱えられることなく晩年まで仕事を求めて諸国を放浪したのです。

最晩年になってようやくフランス国王フランソワⅠ世の招きでフランスに落ち着きますが、芸術先進国の天才でありながら後進国フランスに都落ちしたといわざるを得ません。

しかしだからこそじっくりと時間をかけて「モナ・リザ」や「洗礼者ヨハネ」など神がかった名作ができたともいえますね。

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯~ざっくりと

では簡単にレオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ちから生涯を見ていきましょう。

 

1452年、ルネサンスが花開いた芸術の都フィレンツェの郊外のヴィンチ村で、裕福な公証人の父セル・ピエーロと農家の娘の間に私生児として産まれました。

14歳でフィレンツェへ。当時一級の画家、彫刻家として活躍していたヴェロッキオの工房に弟子入りして技術を磨く。

20歳で親方(マスター)の資格を得て独立。(しばらくは師ヴェロッキオのもとで働く)

その後フィレンツェを出て、ミラノやヴェネツィア、ローマなどで宮廷画家、軍事技師などとして活躍。

晩年はフランソワ1世の招きでフランスのアンボワーズ近郊のグルーの邸で過ごす。

 

1519年67歳で死去。

レオナルドの死を悲しむフランソワⅠ世(アングル作)

 

レオナルドの詳しい生涯については【天才の生涯】をご覧ください。

レオナルドの代表作を紹介

寡作だったレオナルドは、その質、完成度の高さからすべてが傑作であり代表作といえます。

ここではそれらを簡単にご紹介します。

 

詳しくは【レオナルド・ダ・ヴィンチ作品を分かりやすく解説!】をご覧ください。

 

1)ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像

1476~78年頃  ナショナルギャラリー蔵(ワシントン)

 

 

2)受胎告知

1572~73年 ウフィツィ美術館蔵

 

 

3)白貂を抱く貴婦人

1489~1490年頃  チャルトリスキ美術館蔵 ポーランド・クラクフ

 

 

4)岩窟の聖母

1483~86年 ルーヴル美術館蔵

 

 

5)最後の晩餐

1495~97年 サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会

 

 

6)モナ=リザ

1503~07年頃 ルーヴル美術館蔵

 

 

7)聖アンナと聖母子

1508年頃  ルーヴル美術館蔵

 

 

8)洗礼者ヨハネ

1514年頃 ルーヴル美術館蔵

 

 

 

 

レオナルドの技法について

完璧主義者のレオナルドは、それまで伝統的に使われてきた技法では飽き足らず、独自の研究に基づいて自らの理想とする表現を追い求めました。

そのため様々な技法を試したことでも知られています。

 

しかしその多くが失敗に終わり、途中で放棄されたり完成してもすぐにひび割れや剥離が始まることも多くありました。

そのため、ただでさえ数の少ないレオナルドの作品が、良い状態で残っているものはごくわずかです。

 

フィレンツェ政庁の委嘱で制作された、対ミケランジェロとの天才対決で知られる「アンギアーリの戦い」を描いた壁画や「最後の晩餐」などはその例です。

詳しくは分かっていませんが伝統的なフレスコ画の手法を使わずに油絵具に蝋を混ぜて描くエンコ―スティックと呼ばれる描き方を混合したため、絵具が溶け出し制作自体が途中で放棄されました。

↑「アンギアーリの戦い」ルーベンスによって描かれた部分模写。

 

また「最後の晩餐」でも油絵具にテンペラを併用するなど実験的な描き方をしたためにレオナルドの存命中にすでに剥離が起こったのです。

「最後の晩餐」部分

 

また独自の描き方も編み出しました。

それはスフマートと呼ばれる技法で、いわゆる「ぼかし」技法です。

自然に線はないという持論のもと、線を使わず(見えないように)陰影をぼかすことによって柔らかく自然な表現を獲得しました。

これによってレオナルド作品独特の雰囲気が生まれたのです。

 

 

【レオナルド・ダ・ヴィンチに関するその他のお勧め記事】

・天才の人生とは?ダヴィンチの生涯を詳しく解説します!

・ダ・ヴィンチ珠玉の名作を詳しく解説します!

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